しあわせの音が降る(9)

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しあわせの音が降る(9)

 早智子おばさんに淹れてもらったコーヒーをできるだけ時間を掛けて飲み干して、重い足を引きずりながら早智子おばさんの家をあとにした。  おばあちゃんと言っても女性である。わたしの儚い恋心を話せば多少なりとも同情の念を抱いてくれるかもしれない。などと僅かな希望を考えてはみたのだが、それも車窓の外を流れる景色と一緒にどこかへすっ飛ばされてしまった。  早智子おばさんの家から緩やかな傾斜の山道を五分ほど車で走れば、木々に囲まれるようにして瓦屋根の一軒家が見える。おじいちゃんとおばあちゃんの家だ。平屋だが部屋はいくつもあって、印象的なのは玄関が広い。靴を脱いで家にあがるのに膝丈程の段差がある。時々早智子おばさんや近所の人たちが家にあがらずそこに腰掛け、玄関でお菓子をひろげお茶をしていることもあるくらいにゆったりとしている。ゆったりしているからこそ、おばあちゃんにとっては細かなとこまで目につくのかもしれない。 「焚音さん! 靴を揃えなさい!」  三カ月ぶりに顔を見せる孫への第一声。下を見るとわたしの靴は、右足の靴が第一歩を踏み出すように躍動的な形で置いてある。 「足でおやめなさい! はしたない!」  右足の親指で靴を連れ戻していたところにおばあちゃんの第二撃が飛ぶ。実は傷心中の身でして心身ともにまいっておりまして……。と、頭の中で反芻しながら靴を整える。夏はというと、わたしと違ってこういうことを飄々とやってのける。ただ、何度も言うようにニートなのだ。  居間にあがって大きめの座卓の前に家族揃って腰を下ろす。向かいにはおばあちゃん。まるで今から家族面談でもするかのような配置だが、三カ月に一度の恒例だ。わたしたち家族に向かっておばあちゃんがゆっくりと頭を下げる。そして一人ひとりの顔を見渡したあと、いつもきまってこう言うのだ。 「みなさん。本日も揃ってありがとうございます。さぁ楽にしてください」  そう言われても、足を崩して楽にするのはいつも息子であるお父さんだけだ。わたしのお父さんはおじいちゃんに似たんだと思う。楽天的で呑気で、どこかだらしなさがある。 「耕司! あなたはもっとしっかりしなさい。筒原家の大黒柱なんですから。あなたがしっかりしないでどうするんですか。焚音さんがお仕事辞めたのはあなたのせいでもあるのです。父親のあなたが……」  いきなりの話題にわたしは思わず俯いておばあちゃんからできるだけ視線を逸らした。お母さんを挟んでお父さんが小さくなっていくのが横目に見える。
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