しあわせの音が降る(10)

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しあわせの音が降る(10)

「まあ母さん、焚音も社会人としてのいい経験にもなっただろうし、会社の中に泥棒がいたみたいでショックも受けてたみたいだし……」  そうだった。家族にはそういう理由で辞めたことになっていた。あながち間違いではないが……。 「耕司。良い経験というものは失敗を糧に成長することに意味があるのです。逃げ出すこととは違います」 「焚音さん。その寝ぐせ、いくら身内の仲とはいえ容姿は心を映します。まずは身なりからきちんと整えなさい」  お父さんの言うとおり手遅れだった。 「夏さん体の具合はどうですか? まだお仕事をしていないそうですね」  そう、夏は病気がちで会社を辞めたことになっている。飄々としているが夏もおばあちゃんが苦手だった。 「つぐみさん。耕司。ちょっといいかしら」  おばあちゃんがふたりを連れ立って居間を出て行った。自分自身のお尻で圧迫された足のしびれが限界にきていたので、「くはぁー」とおかしな声を漏らしながら足を崩す。隣に座る夏もおなじだったらしく、「あひゃ」とわたしよりもおかしな声をあげて足をのばしている。わたしは我慢できずに、夏の右足のふくらぎあたりを左手で小突いた。「いひゃ、ば、ばか。焚……音」足を抑えて悶えている夏を見ながらこみ上げる笑いをなんとか堪える。笑うと振動でわたし自身の足も自滅してしまうからだ。 「あーもう、自分の足じゃないみたい。それよりねえ、なんで引きこもりの夏にいよりわたしのほうが怒られるわけ?」 「あ……足が。そ、そりゃあ、だって、ぼくは病気がちだから……」 「お父さんたちには朝が早くてついていけないって言ってたくせに。病気がちとか、なんかその理由ずるくない?」  わたしは知っている。夏は嘘をついている。もちろん病気がちでもないし、朝が早くてついていけないなんていうのも。たぶん、嘘だ。それは、わたしも嘘をついて仕事を辞めたからとかではなくて。見たのだ。  夏がまだ大手企業の営業職に就いていた頃、高校生だったわたしはよく学校をさぼって家からすこし離れた商店街で友達とよく遊ぶことがあった。そこで、わたしは何度か夏の姿を見かけたことがある。スーツ姿ではあったが見るからに仕事をしている感じではなく。本屋で立ち読みをしていたり、ゲームセンターにふらりと入ったり。その時の夏は、決して本を読みたいわけでもなく、ゲームをして遊びたいようでもなくて、ただ、その日という抗えない一日の時間をどうにかして潰しているようにしか見えなかったのだ。  理由は知らない。そして、その数カ月後に仕事を辞めて帰ってきた。朝が早くてついていけないなんて理由ではあったが、お父さんもとくに夏を怒るわけでもなく、ただ「そうか」と言ってそれ以上は何も言わなかった。それから夏は部屋にこもりがちになった。
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