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しあわせの音が降る(7)
食卓の上にひろげられたおかきををつまんでいると、早智子おばさんがコーヒーを淹れて持ってきてくれた。木造住宅の心地よい香りに混じって淹れたてのコーヒーの香りがやさしくひろがっていく。市内の家と早智子おばさんの家の中とでは、時間の流れ方がおなじとは思えない。わたしにとってここは贅沢なカフェだ。
「はあ……。落ち着く」
「あら焚ちゃん。寝ぐせなんかつけちゃって、静江さんに怒られるわよ。お仕事も辞めたんだって?」
コーヒーを噴き出す一歩手前で何とか食い止めた。
「げっ、たねおばさん何で知ってるの?」
「こないだ静江さんの様子見に行ったらえらく苛立っててね。聞いたら静江さん、孫が仕事を辞めたんだってあたしを怒るみたいに言ってくるんだから。なっちゃんはもっと前に辞めてたでしょ? だから焚ちゃんだなって分かったのよ」
「あーもう最悪……。やっぱり行きたくない」
一瞬にして贅沢なカフェを追い出され、バンジージャンプの飛び込み台に立たされた気分になった。食卓の上に片方の頬をつけ、コーヒーカップから昇る湯気を無気力に見つめる。
「はあ……。湯気になって消えてしまいたい」
すぐ後ろから早智子おばさんの笑い声と、お母さんの響かせるおかきの咀嚼音がする。
「ところでおばさん、おかあさんどう? ひとりだから心配なんだけどわたしが電話で聞いてもいつも、わたしの心配する前につぐみさんは子供たちの心配をしなさい。とか、子供の失敗は親の失態ですとかいろいろ言われるばかりで……」
「元気よ元気。あたしも何かと怒られてばかりよ。それにしてもあの静江さんでも歳にはかなわないみたいね。まあ歳とったらみんな通る道なのかもね。あたしもこの前台所に何を取りに行ったか忘れちゃって、あっははは。つぐみさんそのうちあたしの面倒みてね。あっはは」
立ち昇る湯気を透かして、夏が呑気に早智子おばさんから貰ったアイスクリームを食べている。なぜ二年間ニートの半引きこもりより、つい仕事を辞めてしまったわたしのほうが罪が重いのだと考えながら、今はすこしでもこの贅沢なカフェを堪能しておかなければと思い体を起こす。
そう「つい」、なのだ。つい辞めてしまったのだ。
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