しあわせの音が降る(8)

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しあわせの音が降る(8)

 大学を出てすぐ、とくにやりたいこともなく市内にあるレストランのウェイターとして働いていたわたしは、慣れない最初の一年ほどは厳しい研修や失敗ばかりで大変ではあったものの、二年目にもなれば仕事にも人間関係にも慣れ、とくに不満なく毎日を過ごしていた。もちろん上司の中には口うるさく苦手な人もいたが、おばあちゃんの厳しい指摘の場数を踏んでいたわたしにとってはさほど苦ではなく、はいはいといった感じですんなり受け流すことができた。なかでも、ふみさんという三十代のフロアマネージャーは、新人ウェイターにとって大敵だった。 「ちょっとあなた。その髪の色来週までに染め直しなさい」 「お客様はあなたのお洒落や、かわいいなんて求めてないの」 「メイク。ちょっと濃いんじゃない。やり直してきて」 「社会にでたらだれも助けてなんかくれないわよ。現実をみなさい」 「仕事に影響の出る恋人なんか別れなさい」  かたっぱしから何かにつけて詰め寄るふみさんに、泣き出して職場を飛び出すなんて光景もしばしば見かけた。一番驚いたのは、新人ウェイターの恋人がレストランに食事に来た時だった。顔を赤らめ恥ずかしそうに仕事をする新人を見かけたふみさんは、その恋人が食事をするテーブルに行くなり、「ちょっとすみません。申し訳ありませんがあなたがいるとうちのウェイターのパフォーマンスに影響します。彼女のことがほんとうに好きなら今日はお引き取りください」と、きっぱり言い放ったのだ。当然その新人ウェイターは次の日から姿を見せることはなかった。  そんなふみさんに、新人の大半は三カ月も経たずに退職していった。そんな中でもわたしはうまくやっていたほうだと思う。好きな人だってできた。調理場の見習いで中途採用として入社してきた年上で当時二十四歳の時田(ときた)さんは、バランスの良い整った顔立ちの持ち主だった。何よりわたしが惹かれたのは、料理に対するひたむきな姿勢だった。まさに夢見る青年といった感じでわたしの憧れでもあった。仕事のあいだはあまり関わることはなかったが、休憩時間が一緒になった時などは、積極的に声を掛けお互い距離を縮めていった。目を煌めかせながら、料理についてや将来の夢なんかを一生懸命に話す姿を見ていると、それが恋心に変わっていくのに時間はかからなかった。  それからしばらくして、意を決したわたしは溢れる思いを打ち明けようと、ふみさんを警戒して職場からすこし離れた場所で帰りを待つことにした。その時のわたしは今までにないほど高揚していた。  時田さんとがっちり手を繋いで歩くふみさんを見るまでは。  そして翌日わたしは辞職した。  そう、「つい」なのだ。
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