きみのいろ

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「おはようございますー」突然、静けさを破る声。 「あ、おはよう……」  ……ん?  誰かと挨拶を交わしてから、振り返る。 「うわっ!?」思いっきり床に尻餅をついてしまう。部室が少し揺れた気がした。痛む尻をさすりながら話しかける。 「二坂?」 「はい」  そこには二坂が居た。いつの間に部屋に入ってきたのか。  昨日は突然居なくなるし、今日は突然現れるし、訳が分からない。 「びっくりしたー! どこから湧いてきたんだよ」 「酷い言い方ですね。女の子を虫みたいに」 「しょうがないだろー。突然出てきたんだから」 「ずっと居ましたよ」 「嘘つけ」 「本当ですよー」 僕は立ち上がって呼吸を整える。 「そういえば、もう作品は完成したんじゃなかったっけ?」 「はい、完成しましたよ?」けろっとした表情の彼女。続ける。 「1つ作品が完成したら、もうすぐに次のやつが描きたくなったんですよ。先輩も見習ってください」  そういうことか。一体どこからそれだけの意欲が出てくるのだろう。 「はいはい、分かったよ。それじゃ、続きを描こうかな」キャンバスを取りに向かう。 「その意気です」  時間が流れるのは早い。ふと窓の外を眺めると、空全体がオレンジ色に染まっていた。 「うわ、もうこんな時間か。早いな」 「完成しました?」  机に突っ伏して眠っていたはずの二坂が、いつの間にか目を覚ましていた。僕は応える。 「いや、もう少しかな」 「ええー、残念ですね。最後まで見たかったのに」 「仕方ないよ。手が遅いんだし、僕」 「ですね」 「認めるなよ」 「ふふ」  一瞬、時間が止まったような感じがした。あくまでそんな気がしただけだけれど。目に見える景色をまるまる切り取って保存しておきたいような衝動に駆られた。夕焼けが染み込んだ美術室。──隣にいるのは。  そこまで考えて止めた。急に鼓動が速くなる。やばい。 「行こうか」 「行きますか」  なぜか言葉少なになってしまう。心の中で、なんだこれ、なんだこれと呟いているけれど、理由は分かっている。分かっているから困るのだ。  帰り道でもそれは変わらなかった。そして、そういうときに限って彼女もあまり話そうとしない。  二人の歩く足音。アスファルトと靴の間で擦れるように音を立てる砂利の音が、やけに鮮明に耳に届く。このままではまずいな、と思い、口を開こうとした瞬間。 「今朝、先輩と先生が話してたことなんですけどね?」突然、改まった声色で二坂が話し始めた。 「うん」一言応えてから、あれ? と思い、質問する。 「え? 聞いてたの?」 「はい。だから、最初から居たって言ってたじゃないですか」 「まあ言ってたけど。本当に居たのか。俺は全然気づかなかったのに」  はい。  彼女は随分小さい声でそれに反応し、続きを話す。  先輩は、ユウレイって信じますか? *  僕は二坂の言葉に大きな疑問符が浮かんだ。 「ユウレイ? 何で急にそんな」  おどけた声で聞き返すけれど、彼女の瞳はあくまで真剣だった。ずっと僕の返答を待っている。 「うーん、実際に居そうかと言われたら……。居ないんじゃないかな」  そう言うと同時に彼女の視線が少し揺らいだ。頭がすっかり混乱してしまってどうすればいいか分からない。 「いや、急にどうしたの? そんな質問……」 「もし」  僕の言葉に重なるくらいのタイミングで、彼女の声が刺さる。 「もし、私がユウレイだとしたら、どう思いますか?」 「え?」  頭がフリーズする。ようやく絞り出した声は随分情けないものだった。 「本当は気づかれないまま一年はやり過ごせるかと思ってたんですけどねぇ」 「いや、ちょっとまって」 「どうしたんですか」うるんだ声に胸がチクリと痛む。  何とか声を絞り出そうとして、息を呑む。彼女の姿がほんの少し光を透過しているように見える。気のせいだと思うにはあまりにも説得力がなさ過ぎた。今、目の前で起こっていることが現実であると認めざるを得ない、のに。  彼女の瞳から頬に、伝うものがあった。 「私は、数年前にこの世から居なくなっているんです」  直接的な”死”という言葉を使わずに話している、そのことに彼女の心の中が透けて見えるようで苦しくなる。 「西沢先生、私の叔母に当たる人なんです。彼女にお願いして、無理やりこの学校に入れさせてもらったんです。条件は誰にもばれないこと」 「……何のために?」  僕の中で、精一杯の質問だった。 「絵を描くのが好きだったんです。もっと沢山描きたかったのに」  交通事故だったそうだ。学校の帰り道。居眠り運転をしていた乗用車に巻き込まれた。それが起こった後も彼女の意識はずっと、空っぽになった彼女の身体の周りを漂い続けていた。そんな時、西沢先生がその存在に気づいた。 「どうしてこの身体に実体が伴ったのか、それは分かりません。けれど先生は、そんな得体の知れない私のことを受け入れてくれた」  分からないことがあって、未だに正しい反応ができない。それでも彼女は話し続ける。 「唯一、やってはいけないことがあったんです。私がユウレイであること、誰にもばれないようにするために。それが」  ……そうか。一つだけ、分かった。 「先生と鉢合わせないこと?」  彼女がなぜ今まで、先生と同じ空間に居なかったのか。居ることができなかったのか。 「そうです。西沢先生。つまりは親族と、近づいてはいけなかった。どうしてか分からないんですけど、近づいてしまうと周りの人たちから、私の姿が見えなくなってしまう」  だから今まで同じ空間に居られなかった。消えてしまうから。  ……じゃあ、今朝の先生と僕が会話している時も。 「ずっと居たのか」 「はい」嬉しそうに笑う。しばしの沈黙。  彼女は一呼吸おいて口を開く。 「でも、よかったです。最後にあの作品を完成させることができて」  陽が傾いて、景色が赤く染まる。もうすぐ夜が来る。 「まだだ。まだ、僕のが完成してない」 「うーん、まあ、しょうがないですねー。先輩の作品見られないかわりに、私のやつは見てもいいですよー。これからの参考に」  喉から声が漏れる。 「ちがうよ」 「じゃあ、そろそろ」 「ちがうんだよ」 「いかないと」 「君が居ないと意味が」 「……たのしかったです」  笑顔。今まで見たことないくらいの幸せな表情のあと、ほんの一瞬だけ、くしゃりと崩れて  溶けていった。 *  僕は今日も絵を描き続けている。失ったものの大きさが全く掴みきれないまま、現実感のない日常を過ごしている。部室の片隅には彼女の絵が飾られている。黄色の光と紫の影。彼女が彼女である証。  あの後、ふとパンジーのことを思い出して少し調べてみた。  スミレ科、スミレ属。開花時期は10月から5月で、ヨーロッパが原産。そして花言葉は「もの思い」。彼女にぴったりだな、と思った。  あの横顔を思い出した。自分の絵と向き合っている時の彼女の表情。それが、今も僕の瞳に鮮明に焼き付いている。
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