零れ桜

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 天笠は誰とでも寝る男だった。老若男女、誰とでも。それは全く大袈裟な表現ではなく、正しく、誰とでも寝た。中津以外の、誰とでも。君とは死んでも寝ない。二人で飲んだ夜、天笠はよく言ったものだ。君とだけは死んでも寝ないよ、僕は。何故と問うと、天笠は酔って真っ赤になった艶かしい唇を綻ばせて、僕らの愛のためさと、演技じみた声音で言った。僕らの愛のためだよ。僕らの愛の純真を守るためだ。君の言う通り、僕は誰とでも寝る。僕にとってセックスは、別に特別なものではない。食事や睡眠と同じさ。ただ必要だから行う。それに然したる意味はない。けれどもそれならば、君と寝ないという僕の決意はどうだろう?君と寝ない。これは本能に著しく反した行為だ。本能に抗うには意志が必要だ。君は即身仏を知っている?そう。そうさ。食の本能を抑え続けて死ぬことが出来れば、人は仏になれるんだ。分かるかい?本能に抗うことはそれほどに価値のある行いなんだ。翻って僕だ。僕は誰とでも寝る。僕は普通よりも更に一段、本能に弱い人間だろう。僕は抗えない。食いたいものを食い、寝たいときに眠り、やりたいときにやる。僕はそういう人間だ。そういう人間であるところの僕が、これほど愛おしいと思う君と寝ないのだ。この意味が分かる?彼は一息に捲し立て、興奮からか、先ほどよりも更に赤みを増した頬を月明かりに艶めかせて中津の手を取った。ねえ、君。僕の愛が分かるかい?恍惚とした天笠の小刻みに震える手は火傷しそうな熱さで、苦労を知らない滑らかな指先のその柔らかさは、無垢で清廉な彼の内実そのままで、中津は分かると頷いた。分かる。分かるよ。ぼくも君を誰より愛している。特別に愛している。中津にとって、天笠だけが特別だった。この欺瞞に満ちた世において、天笠の清らかさだけが、信じるに値する唯一のものだった。天笠は晴れやかに笑み、中津の指先に口付けた。  あの日、二人の純真が破られた日、絶望を全身に纏った天笠は、真っ黒に淀んだ目をして、僕は死ぬ、と口にした。そうして重い足取りで部屋を出ようとした男に、中津は追い縋った。君が死ぬつもりなら、と中津はその背に縋り付いて哀願した。  ぼくは、死んだ君を食べたい。ぼくが君を食べることを許して欲しい。ぼくだけの君が、ぼくは欲しい。  その清らかさを、ぼくはぼくのものにしたい。瞬間、天笠はぴたりと足を止め、直後くるりと振り返り、中津の身体を抱きしめて叫んだ。それはいい!強すぎるほどに強く身体を掻き抱く天笠の手に、中津は息苦しさと喜びを一度に感じ、その胸に顔を埋めた。絶望の淵から生還した彼は少年のように笑い、子供のように声を弾ませた。そうすれば僕らは一つだ!もう何者にも、僕らの愛は汚されない!  甘やかで豊潤な肉の香をゆっくりと咀嚼し、呑み下し、中津はほうと息をついた。ひゅうと高く、風が鳴く。開け放した窓から吹き込んだ花びらが、空になった皿の上にひとひら、静かに落ちた。窓の外に目を転じると、春霞が、舞い散る桜を淡くぼかし、それはまるで、溶けない雪のようだった。淡い紅色に染まった、永遠に消えない、雪のようだった。    そうして天笠は、ぼくだけのものになった。
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