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簡易的な引越しが済んで、黒田は自身の持つ家に帰宅する。すると、「おかえり」の声が聞こえない。久しく返答のない家を感じながら、リビングに移動すると、パソコンを開いたままの田淵が鼻提灯を作っているかのような寝息を立てていた。
柔らかな髪を黒田は堪能し、「商売道具をほったらかしにしちゃって」と八の字眉を作る。
無防備であどけなさを感じさせる男が黒田より5個も年上で、しかもアラサーであるなどちょっとした詐欺だとさえ思うのだ。
「風邪、引くからあっちのベッド行こ?」
一応の声かけは今から田淵を抱き上げる口実に過ぎない。脇に手を差し込み、突っ伏して寝ている田淵とテーブルを引き剥がす。
「脱力した人間でもこんなに軽いなんて——女でもそうそうない軽さだよ、これ」見た目通りの感想だが、彼の重さを体感する。近くにいながらできなかったので、密かに歓喜する。
引きこもりをしていた彼の体に筋肉という類の装備はしていないらしく、抱き上げた時の骨張った節々が黒田に刺さる。配達ボックスまで設置していたのだから、たったの幾秒さえ外気に触れることを恐れたのだろう。
だからこそ、黒田宅へ引き込む手段が限られていて、失敗することで、あまり芳しくない状況へ急転直下する可能性すらあった。彼にとっても、一度外へ出向かせてしまうので、彼を思えばこそ自重すべきだった。
——だが今更だ。
ベッドの上に下ろすと、田淵は細い腰で描く曲線美を黒田に無意識に魅せつける。無論、下半身が疼きを通り越して痛みを与えてくる。
「自制心、自制心、自制心……」と唱えて心頭滅却する。なんとか隣に寝転んで、手を出しそうな信頼のない自身の手は頭部の枕にしてしまう。
だが、そのような苦肉の策は、欲の前にして無様であった。
そっと、田淵の顔を抱き寄せる。
「んふふ! ありがとう——」
喉を鳴らして時期尚早の欲も嚥下できたら、どれほど良かっただろう。
「キス、だけなら……まだ許される、よね」
どうしても我慢ならなかった。否、唇に触れるだけに留められたことに焦点を当ててみれば奇跡に近い。この場で起き抜けに襲うこともできたが、それをしなかった——したかった。
だが、社交性の低い田淵から、この短期間で勝ち取った信頼を手放すことは惜しいのだ。
さながら奥手な恋愛初心者の若造のように、緊張で震える唇。黒田にとってその緊張がドギマギからくるモノではない、邪で濁った感情も入り混じっているモノを必死で抑えているのは言うまでもない。
——大丈夫、大事にできる。
「このまま引きこもって、俺だけ見てればいいからね。——あんな気持ち悪い目にあいたくないなら、ね?」黒田はニヒルに笑って見せる。
翌朝、田淵は間抜けな顔を晒して飛び上がる。その反動で黒田も微睡む目を擦り「おはよう」と目を覚ます。
「え、と。ごめん、寝落ちしてた」
「ううん大丈夫だよ。仕事してたんでしょ? お疲れ様」
未だ寝転んだままの黒田は、にゅ、と腕を伸ばして田淵の髪を乱した。申し訳なさそうにさらに体を丸めているので、「いいのいいの!」と井戸端会議を得意とする主婦がよくやる手つきで、おいでの合図を振る。
そして、つけ込む隙間を見つけて「でさ、部屋の鍵預かって俺が入ったんだけど……やっぱり田淵さんがいなくて良かったって、心底思っちゃった」と思惑と事実のパラドックスが田淵を簡単に不安へと誘う。
「隠していてもいずれ聞かれると思って……。オブラートに包んだつもりだったけど、まだ全然気持ち悪いよね」
黒田は田淵と目線を合わせたくて、体勢を変え抱き寄せた。「不法侵入までされてて、服、ダメになってたから……俺が捨てといた。だから、心配する必要ないよ」。
笑いがこみ上げて今にも高笑いしそうになる。
そんな堪えている顔を見られるわけにはいかない。自身の胸で田淵を覆う。
「乾いていたとは言え、洗ったところで嫌悪感増すだけでしょ? 大丈夫。俺が足りない服、揃えておくから」。背中をさすりながら、小刻みに揺れる指先を懸命に温める田淵を宥めた。
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