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〈5〉
チャイムは鳴らなかった。止めてあるんやろう。真っ青な空はまだ春の青。あれはリツの言葉だ。
「『ちるさくら 海あおければ 海へちる』。高屋窓秋の俳句、桜の花弁が青い海に吸い込まれるみたいだって。こうして寝転がって空を見てると、海と空を言い換えれるねえ。『ちる桜 空あおければ 空へちる』なんてね」
二人で屋上に寝っ転がってした会話は、あのときどうでもよかった。リツだって特に何か思って言ったわけじゃない。今年もああしてここに寝っ転がれると思っていた。そしてそれができるのも今年が最後だと。見上げた空には風に吹き上げられる花弁もない。
勉強だけやない
「思い出を作る時間を奪ったやつの正体はなんや」
誰もいない屋上で声に出したとき、屋上の鉄扉が開くギーという音がした。
「赤城、こんなとこでなにしてんねん?」
びくりとしたけれど、その声は穏やかで、でもこちらまで響いて聞こえる。キーやんの声は誰もいない屋上に漂う空気を震わせた。普段なら校庭の野球部とサッカー部の声で、こんな風には聞こえないやろう。
「寝てる」
なぜかキーやんには敬語を使わない。キーやんもそれをなんとも言わない。
「家、出たらあかんやろが」
屋上のコンクリートを伝って、キーやんの履いているクロックスの音がペタペタと伝わってくる。
「誰にも会ってないで。今、キーやんに会うまで」
すぐそばに来たクロックスの音が止まった。2メートルほど離れたところで、キーやんが寝転んだのがわかった。
「やっぱりここは気持ちええなあ」
ええおっさんのくせに、この人は屋上に寝転がってるのが似合うーそんなことを思った。
「なんでわかったん?」
「自転車あったからなあ、門のそばに」
「ここおるんはなんでわかったん?」
「なんでかなあ、ここに俺も来たい気がしたからかなあ。寝転びに来たんか?不法侵入して」
キーやんの方に顔を向けたけれど、キーやんは見上げた空から視線を変えることはなかった。
「アホなことしに来てん」
「アホなこと?」
「俺がここにおるってな。ほんで別の学校のやつらとも繋がってるでって確認したかった、そんなアホな思い出作りたかった」
キーやんはようやくこちらに顔を向けた。
「ほんで作ったん?」
サージカルマスクからは鼻が出ている。
「それ、鼻も入れなあかんやん」
「苦しいねん、ええやろ、ここでは」
「俺が保菌者やったらあかんやん」
「そやな」
キーやんはまた視線を空に移した。俺も空を見る。
高く、ただ青い空にはいくつかの雲がのんびりと流れている。地上で起こっている大騒ぎなどどこ吹く風。季節の予定どおり桜は咲いて、いつもと同じように散った。
「南高と、楠高と、下河原高にツレおんねん。俺がここでカラーガード振ってな、それ見た楠高のやつが振ってな、それ見た南高、ほんで下河原って。そんなことしてTwitterにあげたろか思ってた」
なんでやろ、キーやんに全部言うてしもた。
「大掛かりやな、ほんでやったん?」
寝転んだままこちらを見たキーやんの視線が、カラーガードを探した気がする。
「やらんかった」
「そうか」
キーやんの視線はまた空に戻った。
「スマホでオンライン飲み会って、もちろんソフトドリンクな、そんなんしてへんの?」
「LINEのグループくらいかな」
「そうか、まあ、ちょっと無機質な分、余計淋しなるわな」
キーやんに言われて初めて気がついた。そうや、一緒にいるときの空気感と温度、黙ってても隣から伝わるリツの香り、そんなことを思い出そうとしてみた。
「なあ赤城。それでも繋がってることを信じることはできんかな」
「えっ?」
「例えばなんも無くても、オンライン飲み会も、チャットも、実際に会うことも、なんも無くても繋がっていることを信じることはできんかな?」
そんなこと考えたことない。
「一緒に作ってきた時間は決して変わるもんやない。その時間のなかで築いた信頼関係いうんは目でみたり、触れたりできんあいだも育てていけるもんちゃうん? 自分が想う気持ちと同じだけ、相手も自分のことを想っていると信じることは難しいか?」
相手も同じだけ。それは五感ではわからない・・気持ち。
「そんなことを言うたやつがおる。行方知れずになった相棒やけど、自分がそいつを想う分、間違いなくそいつも自分を想ってるってな。自信満々でな。その言葉聞いてどっちのやつも羨ましかったな」
キーやんは頭の下に手を置いたまま、そんなことを言った。そしてその顔は楽しそうに見える。
そんな信頼関係って。
返事をせんと目を瞑った。そして考えてみる。
「こんなこと、いつまでも続くわけやない。賢い人らがこのウイルスに対抗する薬やワクチンをきっと作るやろう。確かに恐ろしいウイルスやけどな。例えば去年、国内でのインフルエンザ死亡者数に比べたら、国内で今のウイルスでの死亡者数はまだまだ少ない。賢い人が薬作るまで、凡人の俺らはもしかしたら自分の中にある厄介なウイルスを撒き散らせへんようにしとけばええんや。前みたいに連んで、肩組んではしゃげる未来はそう遠くもないって。SNSやテレビ画面の中でギャーギャー騒ぐ連中に踊らされるな。人生の中のたった数ヶ月や、そんな短い時間で自分の存在や友達との繋がり疑うなよ」
黙ったまま、返事をしない俺をチラリと見てからキーやんは起き上がった。
「あー気持ちよかった。ほれ、これもう渡しとくは来週分のプリント。俺の労力を考えてくれて、わざわざ取りに来てもうてありがとうな。おまえんちちょっと離れてるから、助かったわ。気をつけて帰れよ」
ズボンのオケツをポンポンとはらったキーやんがその場にプリントの束を置いた。
「風上でやめてぇ」
そう言ってから立ち上がる。
キーやんが置いたプリントのところまで行って手に取った。振り返らずに屋上出入り口の方に進むキーやんに
「キーやん、ごめん。ありがとう」
そう言うと、キーやんは黙ったまま右手を上げる、振り返らずに。
帰りは通用口の門から出た。入学したときに買ってもらった、学生鞄が入るでかい籠に付け替えたママチャリは、止められたときのままおとなしく俺の帰りを待っていた。
ふとスマホを見るとLINEが入っている。
(今回の『アホーガード計画頓挫ザンネン会』しよ、15時から。おまえのパソコンzoom入れてる?)
タケルからのLINEに、
(帰ったら入れる)
と打ってから自転車に跨る。
10年後、この春のことを話しながら一緒に飲める友達は、いったいどのくらい残っているだろう。
タケルも、ヒロシも、キュウジも、10年後の飲み会で、『アホーガード計画』で自分たちのことを振り回した俺を笑ってくれますように。
〈fin〉
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