4.『本心』『犬』『サバンナ』(0426)

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4.『本心』『犬』『サバンナ』(0426)

「もしもしお姉ちゃん?」  そう言って電話をかけてくるのは母だ。ミサトからの連絡はメッセージでくる。 「どうしたの?」  ご機嫌伺いであるはずはない。いつだってそうだから。 「今、どこ?」 「帰ってるよ」  夜の9時、普通なら帰っていて当たり前の時間だけれど、母は必ずそう聞く。帰っているか仕事中のどちらかしか答えがないことを彼女はどう思っているのだろう。もしかしたら、もう少し前ならばその返事にがっかりしたのかもしれない。誰かと二人で遊びに行ってるという答えを待っていたのかもしれない。確かに数年前までは「一人?」という質問が入ることはあった。それがなくなったのは母なりの気の使い方なのだろう。 「なに?なんかあったの?」  冷たい言葉かもしれない。どうして「元気?」とか「久しぶり」とかって、優しいニュアンスの言葉をかけることができないんだろう。 「ポンタがね、帰って来ないの」  またか。 「いつから?」 「昨日」  切羽詰まったトーンではない。ポンタの脱走は今回に限ったことではないのだから。 「保健所、連絡した?」 「してない」 「どうして?」 「帰ってくるかもしれないし、他人様に迷惑かけるわけにいかないじゃない」  私にはいいのかよ。目の前で温めたばかりのコンビニ弁当が冷めていく匂いを感じていた。 「ミサトは?」 「連絡してない」 「どうして?」 「だってあの子は夢ちゃんもいるし」  確かに一歳になったばかりの夢を連れて探しに行くのも大変だとは思う。でも自転車で5分の距離に住んでいる。 「わかった。明日行くから」 「お願いね」  電話が切れる音を確認してから、溜息と共に切った。    実家で飼っている芝犬のポンタは、今までに何度も脱走している。私にはポンタの気持ちがわかる気がする。  温め直すことにも疲れて、冷めたコンビニ弁当を食べる。月曜から残業続きで洗濯物も溜まっている。それでも今週は休日出勤をしないと決めて頑張った。そうして得た私の貴重な連休の予定がまた崩れてしまう。  冷たい娘かもしれない。でも私は母が苦手だ。 ◆  車で片道1時間の距離の実家に帰るのは正月以来。次のゴールデンウィークにも帰るつもりはなかった。私が帰るつもりがなくても、こうして何かあれば電話がかかってくる。ビデオデッキの調子が悪いとか、水道の蛇口がしっかり閉まらないとか、玄関のドアが開きにくいとか、ポンタが逃げたとか。  3年前に結婚した妹のミサトがすぐ近くに住んでいるのに彼女には頼らない。子供の頃からそうだったと思う。 「あなたはお姉ちゃんだから」  そう言われ続けてきた。そして子供の頃は私自身もその期待に応えなければいけないと思っていた。  いつからだろう、お姉ちゃんに掛けられる期待の重さに疲れを感じるようになったのは。  8時に起きて洗濯機を回す。土曜のこの時間では下の階の人には迷惑かもしれないけれど、背に腹は変えられない。電気代がかかるのであまり使わない乾燥までセットしてから車のキーを持った。うまく行けば今日中に戻ってくることができる。  考えてみればポンタが脱走するのはいつも週末にかけてばかりだ。 「あいつまで私の自由を奪うつもりか?」  カーステレオから音楽が流れるだけの密閉空間で声に出していた。  駐車スペースの門は開いていた。端にある犬小屋は空になっている。ポンタはまだ帰っていないようだ。コキコキと首を鳴らしてから玄関に回った。  また鍵が開いている。防犯だから昼間でもかけるように言ったのに。  黙ってドアを開けて中に入るとテレビの声が聞こえた。 「鍵、また開いてたよ」  インターフォンを鳴らしたのに、母はキッチンの方にいる。 「ごめんねぇ」  さして悪いとも思っていない声のトーンにまたイラついた。 「ポンタ、帰ってないね。どっか見に行ったの?」  リビングのソファーに座って聞くと 「旭公園の方まで見に行ったけどいなかったよ」 と淡々と。 「またすぐ帰ってくるんじゃない?」 「だといいけど」  そう言いながら冷蔵庫からビールを出した。 「車だからお茶でいい」  そう言って自分で冷蔵庫を開けて麦茶を出した。 「一昨日の何時頃からいないの?」 「買い物から帰ったらいなかった」 「門、ちゃんと閉めなきゃ」 「閉めてたんだけど、あの子賢いのよ」  門の鍵を開ける犬は知らない。でも言い返さなかった。 「そのへん見てくるわ」  グラスを洗って玄関に向かったとき、背中から 「ごめんね、お昼用意しておくから」 と聞こえた。  前回ポンタが逃げたのは、半年ほど前だ。あの時は旭公園から家までの道で見つけた。お腹が空いたら帰ってくる気はしたけれど、とりあえず同じ道を公園に向かう。  この道はポンタの散歩コースだ。一代目ポンタの散歩を剛と一緒にしたことを思い出す。  数年前、もし彼の海外転勤について行くと言っていたら、こうして一人でポンタを探すこともなかったんだろう。私は剛よりも仕事を選んだ。    私と別れてすぐに、剛は会社の後輩と結婚してブラジルに行った。呆気に取られていたというのが本音だった、そんなにすぐにって。仕事と結婚、選択を迫られるのはいつも女だ。時代が変わってもそこはそんなに変わったわけじゃない。  そんなことを考えながら歩くうち、旭公園に着いた。ポンタはいない。公園の前にある自販機で水を買ってベンチに座った。  こうして探しても見つからないこともある。どうしようもないこともある。  ペットボトルの水を半分ほど飲んでから、一代目ポンタの散歩コースで剛と歩いたもう少し離れた川沿いに向かった。  二代目の今のポンタの散歩は最初から母がしているので、コースは短くなっている。でももしかしたら運動も兼ねて足を伸ばすこともあったのかもしれない。  急ぐこともなく歩いて堤防に行く。ここのところ雨も降っていないので水かさも少なくなっている川は、剛と来たときとも子供の頃とも違う気がする。もっともっと光を反射してキラキラしていた。  蘆が茂り始めた河原を見渡していると、まだ低い緑の間をぬって歩く犬の姿を見つけた。 「ポンタ!」  大きな声で呼ぶと、白い犬が足を止めた。堤防から降りてもう一度 「ポンタ」 と呼ぶと、尻尾を思いっきり振って駆けてくる。  泥に汚れてハーハーと舌を出しながら私の前で止まった。リードを付けて、来た道を戻る。 「お母さんと二人で息つまるのはわかるけど、手間かけないでよね」  ハーハーとお行儀よく歩く犬に、話しかけているアラサー女はカッコ悪いのかもしれない。念のため、見つけたことを連絡すると母は 「そうよかった」 と言った。  やれやれだと思う。これで今日マンションに戻れる。  帰ってポンタに水を与えて家に入ると、母が親子丼を作っていた。 「ポンタの鎖のつなぎのとこ、壊れてるから変えた方がいいよ」 「どこにいたの?」 「河原、逃げたらポンタも危ないし、人に迷惑かけてもダメでしょ」 「わかった。今日泊まる?」 「だから帰るって」  黙々と食べながら、そんな話をした。 「門、閉めてね。あと鍵も防犯だから」  ポンタの餌を持って着いてきた母にそう伝えたとき、時計は4時過ぎだった。 「夕飯食べていけばいいのに」 と言った母に 「夜は呑みたいから」 と答える。 「そう」 と、あっさりと引いてくれた。 ◆  いつもの道に出ると異常に混んでいる。どうやら道の先で大きな事故があったらしい。ついてないときはこんなものか。見ず知らずの他人までが私の予定の邪魔をする。  渋滞で止まっているのにも飽きて横道に逸れた。この道の先で幼馴染の明良(アキヨシ)が居酒屋をしている。  オープンしたばかりの居酒屋にはまだ一人もお客がいなかった。 「梓!どしたの?」 いらっしゃいの代わりに言った明良に 「ポンタが逃げたって」 と答えてカウンターに座ると、 「またか、なんか食ってく?」 と笑った。 「ポンタもだけど、ほんとお母さんもいい加減にしてだわ」  料理の下ごしらえを続けながら、明良は笑っている。 「30過ぎた女の休日は暇だって思ってるのかしらね」  明良が何か言いかけたとき、奥から明良のおばちゃんが出てきた。彼女も子供の頃から知っている。 「あらアズちゃん、いらっしゃい。ビールは?」 「こんにちは、車だから」  明良のおばちゃんはあらあらと首をすくめる。  明良が扇ぐと炭火がパチパチと音をたてて白い煙が上がった。 「梓のお袋さん、淋しいんじゃないの?」 「それは違うわ」  何かを炭火で焼きながら明良が言ったとき、おばちゃんがお茶を持って来てくれて話に入ってきた。 「さとみさん、アズちゃんが頑張ってること応援してるから」  意外なことを言う。 「応援?」  お客がいないからか、おばちゃんは私の隣の椅子に座った。 「そりゃ淋しくないはずはないよ、でもね、応援してるんだよ。子供が頑張ってるの応援しない親はいない!」  おばちゃんはそう言って明良の方を見る。 「適当なこと言うなよ」  明良は困ったように眉を寄せておばちゃんを睨んだ。 「適当じゃないから、この間もさとみさん言ってたもん。アズちゃん結婚しないのかって聞いたときさ『梓はね、動物園で飼われてるライオンじゃないんだ』って、『サバンナを自分の力で颯爽と駆けてくライオンなんだ』って。なんか誇らしげに言うから笑っちゃったわよ『女の子にライオンはないでしょ』って。さとみさんも笑ってたけど、金色の立髪をなびかせて厳しい自然の中を颯爽と走るライオンを思い出すんだって、アズちゃんが書いた記事見ると」 おばちゃんはケラケラ笑いながら、 「でもやっぱりライオンはないわねぇ、女の子に」 と言ってから腰を摩る。 「また調子悪いんだろうが腰。上がっとけ」  偉そうに言った明良の声は優しかった。  腰を摩りながらおばちゃんが離れたとき、御通しを出してくれながら 「おばちゃん、心配してんのかもな、おまえのこと。結婚やめたことじゃなくてさ、働きすぎてるから身体のこと」 と、また眉を寄せて困ったような顔をする。 「身体の心配なら休ませてよ」  明良に言い返して、蛍イカの酢味噌あえを口に運んだ。 「こっち来てたら、呼び出しあっても仕事行けないだろうが」  明良が炭火で焼いていたのは、焼き鳥だったんだと思いながら、くるくると手際よく返す様子を見ていた。 「サバンナを駆けるライオンな。確かにオリに入ってるイメージじゃないわな」  明良の声は優しかった。  話しながら透明の使い捨てケースに、焼いた焼き鳥を入れていくと輪ゴムをかけて 「ホイ」 と差し出してくる。 「なに?」 「おばちゃんと食えよ。今夜泊まったらビールと食えるだろうが。ライオンも休め、たまにはよ」 「女子にライオン言うな」 「女子言うな」  笑いながら返してきた明良が、ビニールの手提げをくれた。中に何か入っている。 「なに?」 「前におばちゃんが欲しがってたうちの特性ドレッシング。お袋が届けるって言ってたけど、腰いわしたから持ってってよ」  袋の中に、渡された焼き鳥を入れる。パラパラとお客さんが入ってきたので、袋を持ってレジに行った。少し待っていると、やってきた明良が 「サービス」 ともうひとつ袋をくれる。ポテトサラダが入っていた。  車に戻ってエンジンをかけた。密閉された空間に、焼き鳥の匂いが漂う。焼き鳥の匂いの空気を一度吸って吐いてからシートベルトをつけた。  明良の言ったように考えたことはなかった。  私ばかりを頼っているのではなくて、守ろうとしてたのか?ワーカーホリック気味の現状から。 「ライオンって」  呟いてから少しだけおかしくなった。金色の立髪をなびかせて駆けるライオン。  家に戻ると門が開いている。ポンタは犬小屋の中で寝ている。  車を停めてロックしていたら、玄関から母が出てきた。 「門、また開いてたから」  妙に照れくさくなって、顔を見ずに言った。 「明良くんから電話あった。ドレッシング預けたって」  明良のヤツ。  預かったふたつの袋をあげて見せる。 「ビールある?」 「発泡酒ならある」  門を閉めて玄関から入ると、先に上がり框に上がっていた母が荷物を受け取るのに手を出して言った。 「おかえり」 「ただいま」  少し背中がくすぐったかった。 〈fin〉  
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