6.『顔』『地下』『フェンス』(0428)

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6.『顔』『地下』『フェンス』(0428)

気持ちが沈んだり、悩んだり、反省したり。心が落ちていくときに思い出す言葉がある。 ◆ ボールを打つ音が響くこちら側と全く違う空気が漂っているフェンスの向こう。木陰で本を読む人がいた。 毎日毎日、その人はそこに座り、ただ本を読んでいた。 光が溢れるコートとたったフェンス一枚を隔てる向こう側は、テニスコートの賑やかな音をブロックするために作られたような奥行きの植え込み。繁る木々が光を遮るその場所には、いったいどんな音が聞こえているのだろう。 時々、仲間たちが出す叫声も届いていないかのように、その人は本から目を離さず、こちらを見ることもない。いったいそれほどに集中できる、おもしろい本はなんなんだろう。 いつか静かに本を読む人の姿が、ボールを追っていない私のすべての時間を占めていった。 サークル活動のなかったある日、地下鉄の駅のベンチにその人の姿を見つけた。 自分でも何故そんな大胆な行動がとれたのかは不思議だった。自分から知らない人に声をかけたのはその時が初めてだったと思う。 「こんにちは」 いきなりの挨拶に、その人は本から顔を上げた。驚いた表情が戸惑いに変わる。挨拶の返事も待たず 「いつも本を読んでますね、テニスコートの横で」 そう言った私に 「あぁ」 と伝えるためではない声を出したあと 「テニスの」 と。 「いつもとても集中して読んでいらっしゃるので、いったいどんな本なのか気になっていたんです」 唐突すぎる私の言葉に、その人の表情はようやく柔らかくなった。 「静かすぎても、煩すぎても集中できないから、あの場所はちょうどいいんです」 膝の上でぱたと本を閉じたその人は、ようやく私の方に顔を向けてくれる。 「なんの本ですか?」 目があっているのに驚くほどスムーズに言葉が出ていた。 「今、読んでいるのは武者小路実篤です。小説ではなくて今で言うエッセイですかね」 たった今、閉じた文庫本を私に差し出した。 「失礼します」 書店のブックカバーがかけられた本の表紙を開いて、その題名を覚えたとき、ホームにアナウンスが流れ、電車が到着した。私の乗る電車ではなかった。 立ち上がったその人に文庫本を返す。 「ありがとうございます」 「いえ、では」 そのまま、彼は開いたドアの中に入って行く。ドアを閉じた車輛は、地下の空気を乱したまま動きだし、すぐに見えなくなった。 そのあともテニスコートの横の木陰で本を読んでいるその人にする挨拶は、フェンス越しに頭を下げるだけ。彼も同じように少し頭を下げたあと、いつもの場所で文庫本を開く。 ◆ 時は流れ、取り巻く環境も隣にいる人も変わってしまったけれど、一冊の本の中で見つけた言葉は心に深く染みこみ、時代を超えて超えて、迷うときの指針になる。 「花は何故美しいのか。ただ一筋に咲こうとしているからだ」 〈fin〉  
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