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3週間後の早朝。
雫は元町百段公園にいた。崖の方を向いて、まだ目覚め切っていない横浜の街を眺めている。
雫が早朝ジョギングに出かけるのは、留美さんから秋葉さんの発作を聞かされた日以来だ。
「雫さん」
声をかけると、雫は振り返った。顔つきはいつもどおりの氷の無表情で、特に驚いている様子はない。こっそりついてきたつもりだったが、気づかれていたらしい。
雫は、元町百段があったと思しき方に目を向ける。
「秋葉さんのおじいさんは、元町百段の再建をあきらめたことが無念だったと思います。でも秋葉さんに思い出を語るときは、楽しくもあったのではないでしょうか。そうでなかったら、秋葉さんがわたしにあんな楽しそうに話すことはなかったと思うんです」
ひんやりした雫の声を聞きながら、俺は目を閉じる。
101段の階段を行き交う観光客や、それを出迎える商店の人々。階段を駆けのぼって競争する子どもたち。それを眺める役所の人や、階段の先にある浅間神社の神職。震災で唐突に断ち切られた、ありし日の元町百段のにぎわい──実際に見たことはないし、見る術もないから想像でしかない。
でもそれらはまるで当時にタイムスリップしたかのように、俺の瞼にくっきりと浮かび上がった。
目を開けた俺は、「雫さんの言うとおりだと思います」と頷く。
「元町百段はもう跡形もないけど、当時の思いとか情熱とか感動とか、そういうものが秋葉さんに受け継がれていたんですよ。雫さんに話しているうちに、秋葉さんの中でそれはどんどん大きくなっていった。そのことが力になって、だから」
気配を感じて、俺は振り返る。
「だから、発作が起きても助かったのかもしれません」
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