雫の朝が早すぎる~元町百段編

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「それだったら光栄なのですが」  雫の声に、 「やっほー、雫ちゃーん!」  秋葉さんの声が重なる。張りのある声だった。留美さんに車椅子を押されていることに変わりはないが、3週間前に較べると顔色も格段にいい。 「俺に話を合わせてくれる、天使のように心が清らかな雫ちゃんにまた会いたくて、死の淵から舞い戻ってきたぞ。でももう、娘がバラしちゃったんだってな。意識が朦朧としているときに俺が『本当のことを伝えてくれ』と口走ったらしい。死なないことで頭が一杯でミスったわ」  ──昨日の夜、発作が起こって病院に運ばれたんだけど、父は一命をとりとめました。  3週間前のあの日、留美さんはで目を潤ませながらそう言った。病院に運び込まれた時点では危篤で、留美さんは葬式の覚悟をしていたのに。  医者は「ありえないことが起こった」「奇跡の回復だ」と驚いていたらしい。  ようやく退院したので、久々に会いたい──昨夜、留美さんから雫に、そう連絡が来たのだ。 「瑠実の話を聞いたとき、雫ちゃんは膝の力が抜けてその場にしゃがみ込んだんだってな。そんなに心配してくれてどうもありがとう、わっはっはっ!」  秋葉さんは、3週間前に危篤だったことが信じられない勢いで笑う。 「医者からは『もうしばらくは大丈夫』と太鼓判を押された。せっかく寿命が延びたんだから、ほかのこともやってみたい。もう毎朝ここ来ることはないから、雫ちゃんも無理して俺のために時間をつくってくれなくていいぞ。朝はゆっくり寝ててくれ」 「神社の仕事が忙しいから、お言葉に甘えて今後はたまに来るだけにします」  雫は、俺と二人だけのときから一転、参拝者向けの愛くるしい笑みを浮かべながら言う。でも、 「3週間前、膝の力が抜けたのは疲れていただけです。毎朝ここに来ていたのも、ジョギングのついでにすぎません。そこは勘違いしないでくださいね」  なんだかムキになっている。かわいい。なんで俺にはこういう態度を取ってくれないんだ。たまにはやってくれても罰は当たらないだろうに。その思いが一気に膨れ上がったが、 「そうしてくれ。いままでありがとう、雫ちゃん」  秋葉さんの笑顔を見ていると、「まあ、いいか」と思った。
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