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「お疲れなのに、寝ていなくて大丈夫なのですか?」
「意外と平気でした。それに央輔から連絡があって、急に昼を一緒に食べることになったんですよ。出ようとしたら雨が降ってきて、雫さんが傘を持たず花屋に行ったと聞いたから、ついでに届けようと思いました」
軒下まで来た青年は、「どうぞ」と言いながら赤い傘を差し出してくる。
「ありがとうございます」
少女は傘を受け取りながら、青年のジーンズと顔に素早く目を走らせた。
青年は、そのことに気づく様子もなく言う。
「じゃあ、央輔が駅で待ってるので。お仕事、がんばってくださいね」
自分が考えていることを口に出すべきか、一瞬だけ迷った少女だったが。
「はい。お気をつけて。傘を持ってきてくださって、ありがとうございました」
そう言って、頭を下げるだけにとどめた。
*
「気にしないでください。央輔に会うついでに来ただけですから」
そう言い残し、雨の元町に消えていく青年。その大きな背中が見えなくなっても、少女は傘の柄を左手に握りしめたまま、その場から動くことができなかった。
青年は、明らかに噓をついた。
先ほど少女が立ち話した、知り合い。
それが、青年が待ち合わせていると言った「央輔」だったのだ。
彼は恋人と一緒で、港の見える丘公園に行くと言っていた。デートの予定を変更して、急に青年を呼び出すとは考えにくい。
青年は、なぜ噓をついたのか? 少女は、自分が左手に握っているものが答えだと踏む。
──たぶん、傘を届けるためだけに来たことを、わたしに悟られないようにするためだ。
雨が降りしきる中、徹夜明けで疲労困憊なのに届けたとあっては、少女が気にすると思って。
しかも青年は、きっとここまで走ってきた。ジーンズの股のところにまで泥水が付着していたことが、その証拠だ。いくら雨でも、普通に歩いただけではあの位置にまで泥水が飛び跳ねることはないだろう。
顔も赤かったから、かなりの速度で走ってきて、強引に呼吸を整えてから話しかけてきたに違いない。
少女が目を走らせそこまで見て取ったことに、青年はまるで気づいていなかったけれど。
わざわざ傘を届けてくれた上に、そこまで気を遣ってくれなくてもいいのに、と思う。疲れているのだから、昼ご飯を食べにいくふりなんてしないで早く帰って寝ればいいのに、とも思う。
まあ、でも。
──今夜のお料理当番は琴子さんだけど、わたしがあたたかいものをつくってあげよう。
降りしきる雨の中、少女は赤い傘を差して歩き出す。
その足取りは傘が奏でる雨音に合わせるようにリズミカルで、軽やかだった。
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