10円玉がない

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 幸い、雫はしゃがみ込んだまま歩き回り、床に視線を固定させている。チャンスは充分ある。  ごくり、と唾を飲み込んだ俺は、雫の後ろに回って屈むと、ゆっくり慎重に、右腕を伸ばした。指先が緋袴に触れるかどうかぎりぎりまで来たところで、そっと指を動かし10円玉をつまむ。雫は、床を凝視したままで俺の動きにまったく気づいていない。  この子の集中力の高さに助けられた。     可能なかぎりそっと、白衣と緋袴の間から10円玉をつまみ上げる。  ――よし、成功!  次いで息を殺し、衣擦れの音すら立てないように静かに立ち上がって、木箱へと腕を伸ばす。50センチ、30センチ、20センチ……全身から汗が噴き出す中、10円玉と木箱の距離が縮まっていく。雫はやはり気づいていない。  大丈夫、いける!――と確信した瞬間。  汗ばんだ指先から、10円玉が滑り落ちた。  あ、と声を上げる間もなかった。10円玉は「チャリーン」と甲高い音を立てて机の上で跳ね、フローリングの床へと落ちていった。そのままくるくる回転しながら床を転がり、雫の目の前で狙いすましたようにとまって倒れる。  静寂が、事務室に落ちた。  雫は大きな瞳をさらに大きくし、突如出現した10円玉をただただ見下ろす。
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