琴子さんの装束

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琴子さんの装束

「琴子さんの好きな装束(しようぞく)を選んでいいからね」  草壁(くさかべ)家の居間。座卓に置いたカタログをぱらぱら(めく)琴子(ことこ)さんに、兄貴は言った。  このカタログは、一見、『通●生活』のようだが、掲載されているのは神職の装束や神棚など神社で使うアイテムだ。  琴子さんが選ぼうとしているのは、女性神職が神事の際に纏う装束である。いま使っているものが何年も使っているもので、買い替え時なのだ。  装束の値段は、安いものは数万円程度だが、高いものになると何百万円もする。兄貴としては、「多少高くてもいいものを買って、琴子さんに長く使ってほしい」と考えていた。でも神社の経営に協力してくれる近隣住民の中に口うるさい人が4人いて──密かに「四天王」と呼ばれている──「安いものでいい」と猛反発。  結局、安いものより少しだけ値段が高い「そこそこの価格の装束」を買うことで話がついた。  神事で纏う装束は、色や柄が何種類もある。神社で方針が決められていなければ、神職が好みで選んでいいらしい。選ぶのに時間がかかると思ったが、 「これにするよ」  装束のページを開くなり、琴子さんは兄貴にカタログを向けた。人差し指の先にあるのは、橙色の装束だった。いま使っているものと同じ色だ。 「 うん、わかった。頼んでおくよ」  兄貴はにっこり笑う。「琴子さんのことが好きでたまらない」という声が聞こえてきそうな、見慣れた笑みだ。  なのに、違和感を覚えた。 「よろしくね」  琴子さんもにっこり笑い返す。一見、いつもどおりの宮司(あにき)夫婦だ。  でも……。  俺は右隣に正座する雫を、そっと見遣る。 「よかったですね、琴子さん」  雫はいつもどおりの冷え冷えとした表情で言って、お茶をすする。なにかに気づいた様子はまったくない。  でもでも……。
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