雫の朝が早すぎる~元町百段編

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雫の朝が早すぎる~元町百段編

※各エピソードは独立していますが、この話に関しては「汐汲坂ジョギング編」と合わせてお読みください。  元町百段(もとまちひやくだん)とは、明治のころ横浜にあった観光スポットだ。現在の元町ショッピングストリートと丘の上の浅間神社(せんげんじんじや)をつなぐ階段で、101段あったことから「元町百段」と言われ、たくさんの人でにぎわっていた。  しかし1923年9月1日の関東大震災で崩壊。修復のしようがないほどの惨状で、再建は断念された。現在はただの崖になっており、階段の痕跡はほとんど残っていない。浅間神社があった辺りは元町百段公園になっている。  ──以上、雫が「元町百段」という単語を口にするなりスマホで検索した結果である(便利な世の中だ)。おかげで「元町百段」についてはわかった。  でも100年近く前に倒壊した階段を、雫が「のぼるのも一苦労」と言った理由はわからない。  老人が笑い声を上げる。俺からは後ろ姿しか見えないが、心底楽しんでいることがわかる声だった。 「それでもを使ってくれてうれしいよ。からね」  老人の言葉にますます意味がわからなくなっていると、ベンチの女性が「お父さん、そろそろ」と言いながら近づいてきた。 「そうだな。では雫ちゃん、また。明日も会えればうれしいが、無理はせんようにな」 「無理なんて、全然」  雫が、参拝者向けの笑顔で首を横に振る。女性は雫の方は見ずに小さく頭を下げてから、車椅子を押した。老人の顔が、俺からも見えるようになる。  雫と楽しそうに話していた声からは意外なほどやせて、青白い顔だった。  女性が車椅子を押して、公園から出てくる。俺は慌ててしゃがみ込み、スマホをいじっているふりをする。女性と老人は、俺を気にすることなく去っていった。ほっと安堵の息をついたのも束の間。 「なにをしているのですか」
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