サイフォン

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サイフォン  幼い頃、ひと月に一度母が私を連れて街中に買い物に出掛けた。郊外でも大きなショッピングモールというものはできておらず、食品以外のものを買うにはいちいちバスに乗って市の中心街に向かわなければならなかった時代だ。大きな手芸屋さんに寄って私の服を作るための布を買うこともあったし、三越の地下の食料品売り場の大きなぐるぐる回るキャンデー売り場でキャンデーを買ってもらうこともあったが、私にとって特別なのは長崎屋だった。当時、冴えない印象の百貨店であったが、私には長崎屋に行くかどうかは大事な事であった。まずその理由の一つは、そこで必ず母は一人で買い物をする為に、私を地下一階にあった休憩場所にソフトクリームを買い与えて置いていくからだった。私は小学校に上がる前、体の弱い線の細い子だった。幼稚園も週の中頃にはほとんど熱を出して休まなければならないといった具合で、親は大層面倒も心配もしたことだろう。体の具合のせいもあって元気に外で遊ぶことも少なく、内向的で他の子ども達と遊ぶこともままならずいつも母の影に隠れていた。母も一人で存分に買い物したいというだけではなくて、私が一人で過ごす訓練だったのではないかとも思える。 とにかく、滅多に食べられないソフトクリームを食べることが出来る上にたった一人でおとなしく待つ事が、私にとっては誇らしくもありすばらしい時間だった。  それからもう一つ。母が買い物を終えて戻って来ると、同じ階にある珈琲豆を売っている店に私の手を引いて寄る。母が豆を注文し挽いてもらう間は、私はそこら辺りに漂う香りを楽しんだ。普段両親はまとめ買いした安いインスタントコーヒーを飲んでおり、そのコーヒーとは名ばかりの掠れた香りとは違う香りを堪能した。いい匂いだね、と毎回のように母と言い合ったのも覚えている。  私は珈琲の香りを嗅ぎながら、その週の日曜のお楽しみに思いを馳せていた。そのお楽しみとはサイフォン式の器具を使い、父が珈琲を淹れることだった。  母が珈琲豆を購入した週の日曜の午後、父親が大仰な器具を戸棚から出してくる。家族が揃っており、のんびりとした時間であった。今考えると、給料が出た週なのかもしれない。当時父親は衛生研究所の公務員になって日が浅く、安月給の上に高価な専門書を買ってしまっていたので大抵はお金が足りなかったと聞いたことがある。何杯も飲めるものではない珈琲豆を購入しそれを楽しむ事は、小さな贅沢であり、より楽しむために時間をゆったりととったのではないだろうか。  父親が実験器具の様なサイフォンを割らないように丁寧に扱う様子を、子どもの私はじっと見ていた。父親は、下の丸いフラスコに水を入れる。フィルターを付けた上部のパーツをしっかりと嵌め込み、丁寧に計量匙で何杯か、香りの立つ挽いた珈琲豆を入れる。棒状の物でそれを均す。アルコールランプの蓋を開けると強い匂いがした。離れていなさい、と言われる。でも、父がアルコールランプに火を点けて、そっとフラスコの下にそれを滑り込ませる所も、私はよく覚えている。オレンジ色に揺れる炎がフラスコの中の水をあたためていき、ボコリと泡が立てば後は直ぐだ。あっという間に沸騰し、上部へと続く筒に蒸気が流れていく。どんどん下のフラスコの液体は減っていくと同時に、不思議なことに上に昇った蒸気はふたたび液体に戻り挽いた珈琲豆と交わる。アルコールランプは私が液体と気体の不思議に見とれている間に外され、蓋をされていた。父が棒で上の茶色の液体をかき混ぜ蓋をする。昇っていった時とは全く違う遅い速度で下に落ちる出来上がった珈琲を確かめた。  後は大人が二人、いつも使っている物とは違うカップで珈琲を飲む。このお揃いのカップは普段は食器棚の奥にしまわれているものだった。母は食べなかったが、父はクッキーも一緒につまんでいた。私は横でクッキーと牛乳を。  私の父は、私が小学校に上がったその年に事故で亡くなっている。母も今はこの世の人ではない。  私は自分で珈琲を淹れる大人になった。毎回湯を沸かし温度を調整し、電動ミルで挽いた豆をドリップで淹れる。サイフォン式も試したが、どうにも違うような気がして馴染まなかった。 了
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