第二章 遥か彼方の憧れは

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 失敗した。  あの後、笠原奈々からはほとんど何も聞き出すことができなかった。俺の目的としていた冬華を挫折させた出来事について、得られた情報は皆無に等しい。  代わりにわかったのは、彼女が冬華を嫌っているという事実だった。しかし過去形だったものを再燃させたという意味で、俺は火に油を注いでしまったのかもしれない。そう考えると、収穫どころか炎上させて振り出しに戻ったような心地だった。  息の根を止めた、という表現で気づくべきだった。奈々が冬華に抱いていたのは罪悪感ではなくて、焼き鏝(ごて)のような敵意だった。姉弟子を敵と見做すような何かが二人の間にあり、それは現在の関係性にも深い影を落としている。そしてそれが奈々の、冬華に会いたくない理由とも繋がっているのだろう。  もしも俺が、奈々と同じ立場だったとしたら。冬華を嫌い、敵視するとしたら。おそらく現在の冬華にわざわざ会いたいとは思わないだろう。憎むべき相手が変わり果てたのを目の当たりにしたとき、その敵意を向けるべき存在がなくなってしまう。それはとても苦しい。今はどこにも居ない相手を対象に取る感情は、どんな形であれ重いものだから。  思いがけず見つけた居場所への糸口は、手繰ると同時に失われてしまった。  だが俺は諦めが悪い。幸いにも、奈々を知る人物に一人だけ心当たりがあった。  綾崎冬恵(ふゆえ)――旧姓は足立。冬華の母である彼女は、足立志紀八段の姪にあたる。 「俊くんの行動力には、本当に驚かされるわね」  綾崎邸のリビング。冬恵さんは植物図鑑くらいの厚みがあるアルバムを持ち出して、俺の話を聞いていた。 「気になることは色々あるけれど……とりあえず、奈々ちゃんは元気にしてるのかしら」 「少なくともご飯はもりもり食べてました」  俺からすれば気まずい雰囲気だったのだが、奈々はまったくといっていいほど意に介さない様子で皿を空にしていた。そして自分のぶんの代金だけその場に置いて、さっさと退店してしまったのだった。 「そう。だったら、昔と変わりないってことね」  目を細めて微笑みながら、冬恵さんはアルバムのページをめくる。 「奈々ちゃんは冬華とほぼ同じ時期に弟子入りした子なの。志紀叔父さん……お師匠さんはよく自分の家で将棋の研究会を開いていて、そこに弟子の子たちも泊りがけで参加してた。わたしもしょっちゅう炊事係で呼ばれていたから、あの独特の空気は今でもよく覚えてる。奈々ちゃんは、その中でも特に小さな女の子だった」  ほらこれ、と冬恵さんが一枚の写真を指差す。  畳座敷に並んだ、初老の男性と十数人の子供たち。皆が笑顔でカメラに向かっているなか、ひと回り小柄な女の子だけが仏頂面で佇んでいた。 「周りが男の子ばかりだったから、食事も男の子と同じくらいの量を出されていてね。わたしは多かったら減らしてもいいのよって言ったのだけれど……奈々ちゃんは何て返したと思う?」  見当もつかない。俺は首を横に振る。 「あの子、『減らすのはズルだから』って言ったの。それから全部完食して、次も同じ量でお願いしますってわたしに頼んできた。もう食べたくないってくらいお腹いっぱいだったはずなのに。でなきゃ、あんなに小さな身体の説明がつかないわ」 「冬恵さんに言われたのなら、減らしてもズルではないんじゃないですか?」 「わたしもそう思う。でも、奈々ちゃんは他の弟子の子たちと同じ条件じゃなきゃ意味がないと思っていたのかも。意外と融通の利かないところがあったし、何かと対等さにこだわる子だったから」  (かた)りや不正を嫌い、格下相手にも手を抜かない。  それが笠原奈々なのだとしたら、彼女は冬華の何を嫌っているのだろう。手ずから引導を渡すような真似をするほどに、嫌う何かが冬華にあったのか?  冬華はいったい、奈々に何をしたのだろう。  そのヒントを探ろうと、冬恵さんが示した写真を眺める。すると、ひとつの違和感に気がついた。 「この写真、冬華はいないみたいですけど」  綾崎家のアルバムだというのに、その一人娘の姿がない写真は異質だった。持ち主の冬恵さんがそのことに気づいていないはずもない。  冬恵さんは「そうなのよ」と頷きながら言う。 「集合写真を撮る直前、冬華は奈々ちゃんとすごい喧嘩をしたの」 「すごい喧嘩ですか」 「ええ。このときの研究会、冬華の参加は二回目で奈々ちゃんは初めてだったのだけど。冬華は年下の女の子が来てくれたのが嬉しかったみたいで、ずっとお姉ちゃんぶって奈々ちゃんに構っていたのよ」 「ああ……」  それはとても容易に想像ができた。そして、その後に起こることも。 「奈々ちゃんが爆発したのは冬華との対局を始めるときだった。冬華はお姉ちゃんだからって理由で駒落ちを――ハンデをつけようとしたのだけど、奈々ちゃんがそれはもうびっくりするくらい大きな声で拒んだのよね。あれは今でも忘れられないわ」 「それで逆に冬華が泣かされて、写真にはうつらなかったと」 「そういうこと」  幼少期の冬華は、よく泣いた。泣き始めるとなかなか機嫌を直さなくて、俺も何度か困らされた覚えがある。  我慢強さや寛容さは、冬華が生まれながらに備えていたものではなかった。そういった理性的な部分は将棋を通じて培ったもので、元を辿れば冬華は感情的な部分の強い女の子でもあったのだ。  一方でこのエピソードは、奈々の冬華との確執を表しているようでもある。奈々が冬華を嫌う理由は、駒落ちへの反発から始まっているようにも思えた。 「この写真の後、二人はどうなったんですか」  尋ねると、冬恵さんは少し複雑そうに眉尻を下げた。 「最初こそ泣いて逃げ出してしまったけれど、冬華はあの後も奈々ちゃんによく構いに行っていたわ。それでも奈々ちゃんはずっと素っ気ない反応で、何年経っても仲良くなったようには見えなかった」 「奈々はずっと冬華を嫌っていたんでしょうか」 「どうかしらね。少なくとも、冬華のほうは奈々ちゃんのことが好きだったと思うの。だってそうじゃなきゃ、家にまで呼んで二人っきりで研究会なんてやらないだろうし」  確かにそうだ。冬華が高一、奈々が中二のときはまだ険悪というほどの仲ではなかったはず。個人的な好き嫌いをよそに置き、切磋琢磨できる関係性が二人の間には成り立っていたはずなのだ。  それが一年後には崩壊した。冬華の脱落によって――いや。  むしろ、逆ということもあるのかもしれないが。 「ただ、将棋の対戦成績だけでいえば」  冬恵さんはさらにページをめくり、トロフィーを抱えた冬華の写真を指差す。  写真にうつる冬華は誇らしげに、白い歯をみせて笑っていた。 「冬華は一度たりとも、奈々ちゃんに負けたことはなかったけどね」
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