第二章 遥か彼方の憧れは

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「本当に今日も会っていかないの?」  綾崎邸を出る俺を、冬恵さんはそう言って呼び止めた。 「冬華は寂しがってるわよ。急に会ってくれなくなって」 「承知の上です」  以前にも冬恵さんには理由を伝えた。少なくとも十月の間は距離を置くという俺の決定に、納得はしていないようではあったけれど。  元より納得されるとは思っていないし、無責任だとなじられる覚悟もしていた。冬恵さんは優しいから、そこまで強く言い及んだりはしない。だとしてもやはり、心境は複雑なのだろう。  娘の復帰をその幼なじみの手に頼るしかない歯痒さ。出来ることなら自分の手で導いてやりたいだろうに、情は捨てられず見守ることしか自分に許可できない。それが親心だというのなら、これほど厄介な感情もないと俺は思った。 「任されたことを、投げ出すつもりはありません」  俺は振り返り、できるだけ真っ直ぐに冬恵さんの目を見る。 「冬華が望むことを、俺は最善の形で叶えてやりたいんです。元の自分を取り戻したいっていうのなら、きっと俺が傍に居ちゃいけない。冬華が、冬華自身の力だけで覚悟を決めなきゃならない」 「覚悟って?」 「何色かに染まる覚悟です」  無地の帆布に筆先が触れてしまえば、白いままではいられない。  この半年間をかけて外へ出られるようになったのと同じように、冬華は三年の月日を経て白く塗り潰された。その上に更に色を重ねる工程は、それまでの自分を真っ向から否定しなければ果たせない。  引きこもりのアナグマを消し去り、自画像を受容するための、覚悟。  それはつまり、自分の一部を殺す覚悟に等しい。 「矛盾しているかもしれませんが、俺はまだその時ではないと思っています。あの頃の冬華に戻ろうとするには、まだまだ脆い部分が多すぎる」 「最善の形では叶わない、ということ?」 「はい。そのことに冬華が気づいてくれるのを、俺は待っているんです」  卑怯なやり口だと思う。当人が自らの力不足に気づくまで放置するという手法は、まっとうなテレビドラマであれば視聴者から批判を浴びるような行いだ。ともすれば冬華の他者への依存を高めてしまう結果にだってなるかもしれない。  けれどそれでちょうどいいのだと、俺はそれこそ無責任に思っている。  以前の冬華は、やはり少し人を頼らなすぎていたから。 「意図していることはわかったわ。でも、俊くんだって冬華に会いたいでしょう」  寂しくないの、と冬恵さんが問う。  寂しいですよ、と俺は答える。 「寂しいに決まっています。許されるなら今すぐにそこの階段を駆け上って、冬華に会いに行きたい」 「そうすればいいじゃない。誰も咎めたりしないわ」 「だけどそれじゃあ、冬華のためにならないんです」  今の冬華は、いわば(さなぎ)だ。いたずらに刺激を与えることは害にしかならない。前に彼女を蚕にたとえたことがあったけれど、実際の蚕は成虫になる前に茹でられて生を終えてしまう。冬華はそれとは違う。きちんと大人になることができる。  大人になる、という表現が浮かんできたことを、我ながら情けなく思う。これじゃあまるで自分は大人で、今の彼女を子供だと見下げているみたいだ。  いつだって俺は、前を歩いている冬華の背中を追ってきた。  彼女が子供だっていうのなら、俺だって子供だ、絶対に。 「こんなこと、言えた義理はないのだけど」  冬華の母は遠慮がちに、しかしどうしても堪えられなかった様子で尋ねる。 「どうして俊くんは、あの子のためにそこまで考えてくれるの?」  その問いには、すぐに答えられる準備があった。自分ではそのつもりだった。けれどいざ口にしようとしたとき、それがとても難しいことに気がつく。 「どうして、なんでしょう。俺にとって冬華は特別な人で」  彼女は俺の答えだ。しかし、それは理由にならない。 「あの頃の冬華に戻ってほしくて」  彼女のためなら命だって(なげう)てる。しかし、それは理由にならない。 「そのあとで冬華にありがとうって言ってもらえれば」  しかし、それは理由にならない。  俺はどうして、冬華のことが頭から離せないのだろう。  冬恵さんは俺の要領を得ない返答に目を丸くしていた。それからふっと優しく微笑んで、俺の肩に手を触れる。 「あなたにとっても、この空白は意味があるのかもしれないわね」  言葉の真意はわからなかった。  でも、そうであればいいと、俺は思った。
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