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自宅に帰ると同時に携帯の着信音が鳴った。発信者は蝦夷川先輩だ。
『よう、元気してるか色男』
その声は相変わらず嘘っぽくて、出来の悪い加工音声みたいだった。
『今電話して大丈夫か?』
「何か急ぎのご用ですか」
『いや、なんとなく声が聞きたくなってな』
「気持ちわるいですよ先輩」
携帯を耳に当てながら部屋に戻り、壁掛け時計で時刻を確認する。多少の長話になっても、予定に支障はなさそうだ。
「大丈夫ですよ。用件を伺います」
『電話のオペレーターかよ』
お堅い奴め、と蝦夷川先輩が悪態をつく。
礼儀を弁えることの何が悪いのだろう。このあたりは運動部と文化部の差を感じるところだった。勝手なイメージだけれど、運動部ほどには上下関係を重んじていなさそうで、気楽そうだなと思うことがある。
まあその分、男女関係で揉め事が多そうだから一長一短なのだろうが。
「なつきさんのことで相談なら、お断りしておきますよ」
『くっそ先にお断りされた……ってか、いつの間に下の名前呼びしてんだよ』
「そう言ったほうが先輩は動揺するかと思いまして」
『お前の冗談、心臓に悪いよ』
本当に動揺しているかどうかは別として、そう言わしめたことに満足感を得る。
俺が一番肩の力を抜いて話せるのは、意外にも冬華ではなく蝦夷川先輩だった。どこかで俺はこの人になら何を言ってもいいと思っているらしく、言葉を躊躇う必要がないのがその一因だろう。
そんな相手からの唐突な連絡に、近頃張り詰めがちだった心が緩んでいく気がした。
『何の話しようと思ってたか忘れちまったじゃねえか。ええっと、なんだっけ』
「山瀬さんのことじゃないんですか?」
『そっちはクールタイム中だ。時間が解決してくれるのを待つのみさ』
そんなことで許してもらえる雰囲気ではないのだが。やはりこの人は致命的にズレている。
「出過ぎたことを言いますけど、山瀬さんは先輩にもう一生なびかないと思いますよ」
『ほんとに出過ぎてんな……大丈夫、それはもう諦めてる』
「時間が解決してくれるのでは?」
『そっちは俺のほうの問題だよ。自分の在り方っつーか、アイデンティティ的な……あっと』
閃くような声がスピーカーの向こうから届く。
『それで思い出した。お前の幼なじみさんのことだ』
「冬華のこと?」
なぜ先輩から冬華の話題が挙がる? 動物園で会ったきり、一度もその関連の話をしたことはなかったのに。
妙な胸騒ぎがする。この話題に至る流れもまた、不穏だった。
『名前を聞いたとき、どっかで聞き覚えのある名前だと思ったんだ。そう珍しい名前じゃないし口頭で漢字もイメージできなかったから最初は気にしなかったんだが……ついさっき思い出した。彼女のフルネームは、昔有名だった将棋の棋士と同じなんだ。ひょっとしてそれは、お前の幼なじみのことなのか?』
言葉は出なかった。その沈黙を肯定と捉えたのか、蝦夷川先輩は続ける。
『俺の祖父さんが将棋のファンでさ、綾崎冬華のこともよく知ってた。中学生でプロになって活躍した、本物の天才棋士だったって。でも何の前触れもなく引退したって聞いて、すごく落ち込んでたんだ』
「それが、どうしたんですか」
『なぜ綾崎冬華は引退したのかが知りたい。お前なら知ってるんじゃないのか』
「何も知りません」
『……そうか』
俺の素っ気ない反応に、蝦夷川先輩は何かを察したらしい。電話の向こうで黙る彼に、俺は言い訳でもするかのように話し掛ける。
「確かに冬華は、三年前まで将棋の女流棋士でした。でも今は違います。彼女はただの、少し世話のかかる幼なじみ。俺にとっては、それだけなんです」
『嘘だろ。そんなのは』
断定するような響きの声で、蝦夷川先輩が言う。
『お前がそんな嘘をつくなよ。お前は、俺の模範解答なんだって言っただろ。綾崎冬華を大事に思っているんなら、くだらねえ意地を張ってんじゃねえよ』
肉声と聞き紛うような、心を抉る言葉。
この人は俺をサンプルとして見ている。他人を想う感情がどんなものか、俺を通して知ろうとしている。だから俺を試すようなことを言う。
頭ではわかっている。
でも、ここまで言われて、引き下がれるわけがない。
「あんたに何がわかるんですか」
携帯を持っていないほうの手を、爪が食い込むまで握りしめていた。
「知ってしまうことの怖さが、あんたにわかるんですか。冬華の心をばらばらに砕いて、外の世界に怯えさせてしまうような事実を知って、自分がしてやれることが何もないと気づいてしまう怖さが、あんたにわかるっていうんですか」
ああ、俺はきっと冬華のために何でもしてやれるんだ。
なのに何もしてやれないと理解した途端、その自負は絶望になる。
「もがくしかないんです。俺がしてやれることが、本当はどこにもないかもしれないとしても。だったら知っても知らなくても、俺のやるべきことは何も変わらない」
『……そうか』
蝦夷川先輩の、ため息交じりの声色。
『お前は何か勘違いをしてるんだな』
「まだ煽りますか」
『そうじゃない。お前が本当に知るべきなのは、冬華さんのことじゃない。お前自身のことなんだよ』
それはどこか見放すような、失望するような響きがあって。
なのに俺が想起したのは、先程聞いた冬恵さんの、温かみのある言葉だった。
――あなたにとっても、この空白は意味があるのかもしれないわね。
そうであればいいという願望が、先輩の指摘によって確信へと変わる。
『お前は確かに模範解答じゃなかった。なら、その間違いにも気づいてみせろよ』
空白には、必ず意味がある。
俺は俺を知るために、これを用いなければならない。
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