第二章 遥か彼方の憧れは

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 自分の感情を整理すると決めたとき、まず最初に行き当たった風景がある。  小さな川だった。山あいの隣町から細々と流れてきて、他とは一切合流せずに次の町へと向かう、孤高の川。流れる水は澄んでいて、泳ぐメダカも心なしか気持ちが良さそうで、地元の小学生も夏場にはよく裸足で踏み入って遊んでいた。  その頃の俺は小学二年生で、クラスでも一番のチビで、放課後に遊べる友達がなかなかできなかった。だから小川で遊びたくても、ひとりだと先に来た子たちに追い返されてしまう。  そんな俺を心配していたのか、冬華はある日の帰り道にこんな提案をした。 『あの川の流れてきたほうに行こう。きっとどこかに、川のふるさとがあるはずだよ』  川のふるさと。それはとても特別な場所のように聞こえた。そこには川のお母さんがいて、お父さんがいる。もしかしたら、きょうだいだっているかもしれない。  週末の午後、俺と冬華はそれぞれに準備したものをリュックに詰め込んだ。親は遠出になると何かと制限をつけたがるから、いってきますは言わずに家を出た。お互いばれずに最初の関門を突破できたのを確認すると、冬華は『わくわくしてきたね』と言って笑った。  空は抜けるような快晴で、気温も水のそばだったからかそれほど暑くは感じない。不安なことは何もなくて、先行きには楽しいことや面白いことが待っているのだと信じてやまなかった。  でも、小学校低学年の子供にはその道は険しすぎた。  隣町のさらに隣町を通りがかったあたりで俺はへとへとになっていた。歩幅も足のサイズも小さくて体力もなく、何よりリュックに余計なものを詰め込みすぎていた。何度も何度も休憩をせがんで、そのたびに冬華を立ち止まらせた。そして毎回、五分きっかりの休憩を取ってもらった。  思い起こせばあのとき、冬華は焦っていた。賢い彼女は川のふるさとがまだまだ上流のほうにあるのだと知っていて、このペースでは到底そこには辿り着けないことも理解できていたのだろう。  とはいえ小学三年生の冬華に、行程にかかる時間を見込んだ計画までは立てられなかった。俺にずっと背を向けて、川辺の道を進んだ冬華が、泣きたい気持ちを堪えていたかもしれないなんて、そのときの俺が想像できるはずもなかった。  今なら、冬華の思いが自分のことのようにわかる。  きっと心細かった。この道を辿っていいのか不安だった。今が引き返すべきときか、それとももう引き返しても遅いのか。間違った判断をして、取り返しがつかなくなってしまうことが怖かった。  どうしてこんなことにも気づけなかったのだろう。  冬華が背中を見せたのは、頼ってほしかったからじゃない。  泣き顔を、見られたくなかったからだ。  あの川は、住宅地の区画整理でなくなってしまった。  用水路でもない自然の水流が残っていたこと自体が珍しく、川の付け替え工事が行われることはずっと前から決まっていたのだそうだ。上流のほうで大きな河川に合流してからは、生活のなかでメダカを見る機会も減っていった。  川はふるさとに、家族のもとに帰っていったんだと、当時の俺は思った。  あれから俺は成長した。あの川のふるさとが山の奥深くにあり、その始まりが薄暗い土地であることも学んで知った。家族と呼べるもののことは、よく知らない。  そんなものだ。子供の頃の特別は、大人になってみれば取るに足らないものだったりする。数年ぶりに帰郷した街並みが、小さく見えてしまうのと同じように。  三年という時間は俺を違った形で街を捉えられるように変えてしまった。それは元の形を捉えられなくなったのと同じこと――と、ある日の俺は考えていた。今だって同じように考える。三年間は、人がかたちを忘れるのには充分すぎる時間だ。  だったら、冬華だってそうじゃないのか。  彼女が戻りたいと望むものは、もう記憶の底に埋もれてしまっているんじゃないのか。再現しようとしてもそれは紛い物で、贋作で、出来損ないだ。そんなものを目指すよりも、違った形をした別の何かになったほうが、よっぽど正しいんじゃないのか。  でも違う。それは本題から逸れている。俺はもう、冬華に正しさなんて押しつけてはいけない。  これは、俺の話だ。  俺が見失った、染井俊の話だ。  あの風景をもう一度思い出そう。俺はあのとき、何を見ていた? 流れる川の水か、草っぱらの地面か、冬華の背中か。  いや、その中のどれでもない。俺は冬華の顔を見ていた。足が痛いと言って遅れる俺の左手を引いて前を向く、冬華の横顔を見ていたんだ。  泣き顔を見られることはもちろん嫌だったのだろう。けれどそれを見られてでも、冬華は俺を置いていくことだけはしなかった。頼られる自分でいたいという気持ちより、今この時に応えられる自分であろうとしたのかもしれない。  なのに俺は、その顔を見なかったことにしていた。そして冬華の頬に流れる涙の滴を、足元の清流と重ねて忘れ去った。  その涙を見て、俺は悲しかったはずなのに。  この人を守ろうって、そのために傍に居続けようって、そう決意したはずなのに。  だが、長い時間は人を変えてしまう。幼い子供の決意を、大人になる過程で見失わずにいることは困難だ。  それでも俺は忘れるべきじゃなかった。その記憶は、光の届かない静かな山奥で大切に仕舞っておかなければならなかった。まるでふるさとみたいに、いつか帰ってくる場所でなければならなかった。  追いかけて、追いついて、彼女の隣を歩くこと。  何故そうしたいのか――その理由を忘れていたから、俺はずっと迷っていた。  だけどその答えを、ようやく取り戻せた。ならばもう忘れない、誤魔化さない、虚勢を張らない、見ないふりをしない。  また迷ったとしても、進んでいく。  時間が真っ直ぐに進む柱だとすれば。  人はそれに絡みつく蔦のようだ。  俺は目を開く。
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