第二章 遥か彼方の憧れは

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 ≫話したいことがあるんだ  夕刻、定例のラインにその一文だけを打ち込んだ。  返信が来るのを待つ間も俺は考えた。この感情をどんなふうに伝えればいいのか。回顧の末に見つけた答えを、どう言えば冬華に受け止めてもらえるか。ありのままに伝えても大丈夫だろうか、なんてことを。  窓の外をみれば、満ちつつある宵闇。この夕方のラインを始めた頃には、六時はまだ太陽が空に浮かんでいた時間だったのに。これから冬が深まるにつれて、さらに日没は早まっていくのだろう。それはとても自然で、健やかなことだと思う。  夜の長さで季節を知る。植物のような感性で、冬の訪れを理解する。人間である俺たちは長い休眠に入ることを許されず、厳しい寒さに耐えることを強いられる。  それが遥か昔から決められている営みだ。当たり前のように受け入れているし、今更悲しいなんて思わない。冬に耐えうるだけの力を、俺たちは与えられたのだから。  程なくして携帯が鳴った。画面を見ると、冬眠から目覚めた熊のアイコンがポップアップされていた。  ≫わかった  ≫今からいくね 「ちょっ」  慌てて思わず声が出た。  行動に移すのが早すぎるし、そもそも家に来られることなんて想定もしていなかった。かといって電話越しで済ますつもりもなかったし、てっきり俺が再び綾崎邸にお邪魔することになると思っていたのだが。  来訪に備えようと最初に手を付けたのが部屋の掃除だった。居間には母がいるし、二人きりで話せる自室が望ましいと思ったからだ。  しかし冷静に考えれば、冬華を家で待ち受けずにこちらから会いに行けば済む話だった。身支度にかかる時間を鑑みても、先手を打つことは充分に可能だったはず。俺がそうできなかったのは、単純に狼狽(うろた)えてしまっていたからだろう。  そのことに気づくのとほぼ同時に、玄関のほうで物音がした。インターホンが鳴らされるよりも先に階段を駆け下りて、玄関の鍵を開けに行く。 「いらっしゃ――」  扉を開けると、冬華がいた。  いや、この言い方には語弊がある。そこにいたのは、俺がひと月前まで毎日のように寄り添っていた、白くて綺麗な彼女――ではなかった。 「やあやあ。久しぶりだね、シュン」  くすくすと、アイロニカルに。  よそ行きの笑顔で、綾崎冬華は佇んでいた。    * 「懐かしいなあ、きみの部屋に入るのなんて何年ぶりだろう。小さな頃はよく二人で遊んでいたけれど、いつの間にか別々に遊ぶようになってしまったよね。しかし今こうして同じ場所にいられるのはとっても喜ばしいことだ。そうは思わないかな、シュン?」  冬華は旧来の友人に話し掛けるようにして、横から俺の表情を覗き込んでくる。首を傾けるとともに肩からこぼれる髪の束は、墨で染めたかのように真っ黒だ。  その外見と話し方は、かつての冬華そのものだった。優等生らしく控えめなメイクと、それでも充分に映える整った顔立ち。気取った口調と、どこか達観した眼差し。失われたはずの冬華の姿が、ここにある。  それは、待ち望んだ彼女の帰還だった。  だけど素直に喜べないのは、どうしてか。 「何か言ってよシュン」  不満げに俺の服の裾をつまんで引っ張る冬華。迫る距離と、香る甘い匂い。 「わたしのこと、嫌いになった?」 「……そんなわけないだろ」  裾をつまむ冬華の指に触れる。ひんやりとした感触を返すその指をほどき、手を離させた。 「驚いただけだ。その、急な変わりようだったから」 「うん? そうかなあ。別に、いつもどおりだけど」  不思議そうにぱちぱちと瞬きをし、冬華はベッドの端に腰掛ける。それからひとつ、大きなあくびをしてみせた。  目のやり場に困る、というのが正直な感想だった。冬華の今の服装は、英字入りのプリントTシャツとタイトなジーンズ。かなりシンプルで飾り気のない格好なのに、年上の女性であることを否応なく意識させられてしまう。  直近の彼女とは一八〇度変わった印象に、戸惑いを覚えるなというほうが無理な話だった。  母が差し入れにと持ってきたアイスティーを口に含みながら、俺は何とか仕切り直せないかと考える。ペースを冬華に握られてしまったせいで、今伝えても軽く流されてしまいそうな気がしたからだ。  しかし無情にも、話題の口火を切ったのもまた冬華だった。 「話したいことがあるんだよね?」  その声音から感じられたのは、純粋な興味。俺が何か大事なことを告げようとするのを、期待しながら見つめている。  これまでの冬華なら、俺の緊張に感化されて口をつぐんでいたはずだ。自分から話を促すことなんてなかった。  でも、それが何だというのか。むしろ望むところじゃないか。  俺は自分を奮い立たせ、仕切り直す選択肢を捨てた。 「アキレスと亀」 「うん?」 「足の遅い亀に、足の速いアキレスは追いつけない。何故ならアキレスが亀の元居た場所に辿り着いたときには、既に亀はその先を行っているから。これを繰り返す限り、結果としてアキレスが亀に追いつくことはない」 「それが、シュンのしたかった話?」  もちろんそんなわけがない。俺は首を振る。 「アキレスは前提を間違えていたんだ。亀の居た場所だけを目指しているからそれが達成できないってことを、理解しなかった。追いつけなかったのは、考えるのを放棄した怠惰の結果だ」  俺はいつも遅すぎる。先を行く冬華が逸る気持ちを抑えながら待っていてくれたのに、最初から追いつけないと決めつけて、追いかけることだけを目的にしていた。  アキレスと亀なんて、本当はくだらない。  俺は亀であり慢心する兎でもあった。それでどうして、彼女に追いつくことができるというのだろう。 「何が言いたいのか、わたしにはわからないなあ」  ベッドの上に手をついて、薄い笑みを浮かべる冬華。実際は俺の言っていることの裏の裏まで見通しているような、余裕の含みをもった笑顔だ。  これだ。この笑みに俺は騙されてきた。追いつけない背中だと錯覚し、俺は焦燥の末に本質を見失った。  ――違うよな。そうじゃない。  冬華のせいじゃない。俺はやっぱり、見ないふりをしていただけなんだ。 「つまりさ。俺は」 「うん」 「君のことが大好きだったんだ」  俺の言葉を受けて、冬華は首を傾げる。  そして平静な声色のまま言った。 「それは知ってるよ」 「……そうきたか」 「気づいてないと思ってた? このわたしが」 「どのわたしだよ」 「きみの好きなわたしだよ」  俺は大きなため息をひとつ。それから堪らず笑みを漏らす。  冬華には本当にお見通しなのだ。俺がどんなに冬華を見誤ろうと、いつも彼女はそこに居る。答えを持って、待っていてくれている。  ならもうこれ以上、離れるわけにはいかない。  お互いの手が届く距離で、横顔を見ながら、隣を歩く。  そういう関係性になりたいんだと、俺は気づいてしまったから。 「告白をしたからには、期待してもいいんだね?」  冬華は言う。そして浮いていた足を降ろして立ち、俺のもとへと近づいてくる。 「傍に居てくれるって。わたしに追いつくアキレスに、なってくれるって」 「神話の英雄には、俺はなれないけど」 「なんだっていいよ。それがシュンなら、なんでも」  照れくさそうに笑う冬華。  その顔を見るだけで、思いを告げた意味があった。 「最近はずっと素っ気なかったから、素直になってくれて嬉しいよ。ふふっ、もしかしたらこのまま一生を添い遂げることになったりしてね……ああでも、きみはまだ結婚できる年齢じゃあないか――」 「いま、なんて言った?」  差し伸べられた手を、握り損ねる。 「なんて、って」  冬華は当惑した表情で俺を見上げていた。 「まだ結婚できる年齢じゃないでしょう? シュンは今年で十六なんだから」 「何言ってるんだよ、俺は今年の春で大学生になったんだぞ」 「あはは、変な嘘。わたしだってまだ高校生なのに」  冗談を言っている様子はない。朗らかだった眼差しは、怪訝なものへと変わる。  どういう、ことだ?  時が捻じれる。秒針の代わりに、心臓の鼓動が時を刻む。  ――きみの部屋に入るのなんて何年ぶりだろう――  ――そうかなあ。別に、いつもどおりだけど――  まさか。 「あれから三年経ったのを、覚えてないのか?」
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