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第三章 清麗
冬華は三年間の空白を忘れてしまっていた。
綺麗さっぱり、一片のかけらもなく。
*
教壇の前にぶら下がった真っ白なスクリーンに、葉の茂った大樹が映し出されている。
自然科学の講義だった。大学の一年目は一般教養に関する講義をいくつか選択して受講する必要がある。そのため、講義内容に興味がある人とそうでない人の差が大きい時間でもあった。そして俺はどちらかといえば、後者のほうに属している。
講義室の硬い座席に座って、ノートも取らずに前を見つめる。切り分けたバウムクーヘンを波状に並べたような、横長の机の列がそこにある。もし俺がいきなりその上に乗って、あちこちへ飛び移りながら大声で唄い始めたら、講義は中止になるのだろうか。
なんて、らしくないことを考えている。
できないことを想像するのはいつでも楽しくて、その間は自分が何でもできるような感覚に浸れる。可能だけれどやらないだけ、みたいな疑似的な全能感もまた癖になる悦楽なのだと思う。それがたとえ、勘違いだとしても。
「やっほ、シュンさん」
隣から話し掛けられる。視線をそちら側にやると、奈々がいた。
「……なにしてるんだ」
「なんだ、反応薄いじゃん。天才将棋少女の奈々さんだよ?」
「自分で言ってて恥ずかしくない?」
「このくらいの恥辱はなんともないね」
えへんと胸を張る奈々。自分で恥辱と言っておきながらのこれだ。
「にしてもシュンさん、友達いないんだねー。大学の講義って基本的に座席指定じゃないんでしょ」
「この講義は選択必修だから。たまたまだ」
「ああそう。別に興味はないんだけど」
じゃあなんで訊いたんだ、とは口にせずに彼女の身なりを確認する。
奈々は赤い縁の眼鏡をかけていた。絶妙に似合っていないからおそらく伊達だろう。上着もやや背伸びしたロングコートで、変装しているつもりなのが窺える。確かに大学生らしくみえないことはないが、どちらかといえば顔への視線を他に誘導して有名人であることを隠すのを目的にしているように感じられた。
そういえばこの前、テレビで奈々が映っているのを見たばかりだ。現役の女性棋士でインターネットを中心に人気を集めている、という紹介から始まって、彼女の一日を密着取材したという構成の企画だった。
ただしそこでの奈々はほぼ見栄え重視のアイドルのような扱いで、棋士としての顔は意図的に省かれていた。地上波放送では地味な絵面は好まれないのか、単に彼女の魅力はそこにないと切り捨てられたのか。どちらにせよ、その番組企画を最後まで観ることはなかった。
「有名人は大変だな」
思い出された映像に俺は気の毒になり、ねぎらいのつもりでそう言った。
だが奈々は俺の顔をじっと眺めたあとで、はあ、とこれ見よがしに息を吐いた。
「シュンさんってけっこう常識抜けてるよね」
「え? どこが」
「心配するところがおかしいよねって話。普通、平日の昼間に女子高生がこんなとこにいたらズル休みかとか言うでしょ」
言われてみれば尤もだ。平日にも対局があるのだから学校を休むことは多いほうだろうが、将棋に関わることでもないのに奈々がここにいるのは違和感がある。
「もしかして近場で対局があったとかか? いや、でも俺がここの大学生だとは言ってないはずだよな」
「あはははは、悩んで悩んで」
年上をからかって楽しんでいるようだ。性格の悪い奴。
とはいえ情報の漏れるところは限られている。おおよその見当はついていた。
「大学は冬恵さんに聞いたんだな。学校が休みなのは何かの代休か、創立記念日だろ」
「ちぇっ、なんでわかっちゃうかなあ」
つまらなそうに、奈々は唇を尖らせる。
「この前お師匠んとこの研究会に顔出したらさ、冬恵さんが来てたの。久しぶりに会いたくなったから、ってね。シュンさんの大学はそのときに聞いた。ちょうど受験しようと思ってたとこだったから、びっくりしちゃったよ」
「そうなのか。とんだ偶然だな」
個人情報を勝手にばらされたことにはやや不満を覚えたけれど、奈々に知られたところで害があるわけでもない。今回は見逃していい件だろう。
それよりも、次に重要な話が続くのは目に見えていた。
「でもまあ当たり前というか、本題は綾崎センパイのことだったんだよね」
どくん、と脈拍が変調をきたす。
奈々は視線をスクリーンのほうに向けて、続ける。
「センパイ、戻ってきたんだね」
「……ああ」
「とりあえず、おめでとうは言っとく。それはシュンさんの努力の賜物だろうから」
「俺は何もしてない。あれは冬華が自分で立ち直ったんだ」
「謙遜しないでよ。冬恵さんから全部聞いたんだから――」
「何もしてないんだ」
図らずも張ってしまった声。講義室にある目が一瞬、俺に集まる。
「あーあ、何やってんだか」
呆れたような顔をして、奈々は自分の頬に手を当てた。
講義室の一部がざわつき始める。この講義では見慣れない女子の存在に気づいたらしい。ともすれば、この女子が笠原奈々であることにも気づいたのかもしれない。
「悪い、奈々」
「ほんとにね。ま、講義中に喋りかけたあたしも駄目だったな」
奈々は人目もはばからずに大きく伸びをする。それが合図になったのか、ざわつきが講義室全体へと速やかに広がっていく。
俺は今更ながらに理解する。彼女はこうなるリスクを覚悟の上で、俺に会いに来たのだと。
「場所、変えよっか」
奈々は俺の腕を掴み、にこりと笑う。
それはテレビの画面でも映えた、完璧な微笑みの再現だった。
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