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二軒隣の講義棟、その三階まで移動してようやく追っ手の気配がなくなった。講義中の離席にもかかわらず、追ってくる受講生は意外なほどに多く、逃走にはそれなりの時間を要した。
奈々は棟内の壁に沿って置かれたソファに座って息を整えている。体力には自信があるらしいがそれは長期的なもので、走るといった短期的な運動はさすがに堪えるものがあったようだ。
階段の踊り場から追っ手が来ないことを確かめたところで、俺は奈々へと歩み寄る。まだ頬は火照っているが、呼吸の乱れはなくなっていた。
「なんであたしが、こんな指名手配犯みたいなこと、はあ、しなきゃいけないんだか」
吐息に込められていたのは、自嘲と辟易。俺にはそう感じられた。
多くの人に名が知れるということは、俺が想像するよりもずっと苦労が絶えないのだろう。堂々としていられる場が限られ、目立たないように過ごさなければならないのは一般人には理解しがたい感覚だ。
一時期の冬華も、そうだったのだろう。だとしたらそのことにも、俺は気づけないままだったのか。
「なにヘコんだ顔してんの、おにいさん」
奈々はコートに絡まった髪をほどきながら俺の顔を訝しげに見ていた。
「こうなったのはお互い様だから。大学のキャンパスでシュンさんを見つけたときから、あたしもテンション上がっちゃってたわけだし」
「上がっちゃってたのか」
「そ」
だから気にしないでね、と奈々は言う。
それを言うなら気にしているのは彼女のほうだ。お互い様としたほうが公平だというのはわかるけれど、それだと一方的に奈々が我慢していることになる。こちらからすればそれこそ不公平だ。
「前から思ってたんだけど」
疑問をそのまま口にしてみる。
「奈々はどうして、対等であることにこだわるんだ?」
「あー、それよく訊かれるんだよね。あたしは別にこだわってるつもりはないし、特にきっかけがあったわけでもないんだけど」
指を組んでその境目を眺めながら、奈々は答える。
「強いて言うなら、棋士だから、かな。勝負事って対等じゃないと成り立たないから。棋力的な話じゃないよ、気力的な話……って聞いたら同じか。あははっ」
空虚な笑いだった。奈々もただちに温度差に気づき、目が泳ぐ。
「じょ、冗談はともかく」
「本気で言ったんじゃないのか」
「そりゃあそうです!」
パンプスの底から高らかな音を響かせて、奈々は勢いよく立ち上がる。
「まったく、このあたしが大事な時間を削って励ましにきてあげたというのに、なんでこっちが弄られる羽目になってるのかな!」
「励ましに、って何で?」
「だから、冬恵さんから色々聞いたの。それでシュンさんが落ち込んでるっていうから、大学の見学ついでにちょーっと話を聞いてあげようと思って――あ」
しまった、と声が聞こえてきそうな表情だった。
だがこれで幾つかのことに合点がいった。冬恵さんもそうだけれど、奈々もかなりのお人よしらしい。
「やっぱり気を遣わせてたんだな」
思い当たることがある。
あの日以来、俺は気が抜けてしまっていた。冬華の身に起きたことを受け止めきれず、けれど完全に離れることもできず。数日に一度は会って取り留めのない話をするだけの、形式的な行為をただ繰り返していた。
空白を完全に切り捨ててしまった冬華に、俺は――
「ああもう、そういう顔しないでよ陰気だなあ」
奈々の溌溂とした声が、虚ろな俺を引き寄せる。
「話を聞いてあげるって言ったでしょう。それから一緒に考えようよ」
「……何を?」
「愚問だね」
そう言って奈々は口元をにいっと上げ、温かな眼差しのまま微笑んでみせる。
前々からこの笑顔には既視感があった。誰のものかずっと思い出せなかったけれど、今ようやく重なった。
――綾崎冬華だ。
冬華の笑ったときと、よく似ているんだ。
「それはもちろん綾崎センパイを、きちんと直す方法だよ」
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