第三章 清麗

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 冬華の現状を一言で表すのは難しい。  具体的に失った記憶は、三年前の十二月から先月の告白の日前日まで。今現在、冬華は自分を高校二年生の十六歳だと思っている。そのため、平日には制服を着て学校に行こうとしたし、友人とラインで連絡を取ろうともしていた。  実行に移す前に冬恵さんが制止していなければ、どうなっていただろうか。高校は一年前に中退しているし、かつての友人たちに突然連絡して戸惑わせるわけにもいかない。そしてそうなることを認識できないほど、今の冬華は正常な判断が可能な状態にないのだ。  奈々の言うとおり、きちんと直す必要があるのかもしれない。  けれどどうやって? 冬華は、ようやくかつての自分を取り戻したのに。 「全部がセンパイの演技、って可能性はない?」  冬華の現状に関する説明をすべて聞き終えたあと、奈々はそんなことを言いだした。 「普通に考えて、三年分も間が空いたらちぐはぐなことがいっぱいあるでしょ。身体的なものも含めて、いろんなものが変わってる。そこを全部無視して自分を高校生だと言い張るのはおかしいよ」 「医者の話だと、本人も混乱してるらしい。あれから三年経ってるってことは周りに説得されて理解したけれど、それでも身に染みついた習慣を再現しようと無意識に動くみたいで、そこまでの過程に生じた不自然な食い違いは無視してしまうんだってさ」  そのため冬華は病棟で入院中だ。つまり演技でないのは医者の折り紙付きということになる。  自分を自分で制御できない状態。三年もの記憶が失せてしまっているのだから無理もない。そのあたりのケアは専門の医者や看護師に頼るしかないだろう。  それよりも俺が追うべきなのは、何が原因で記憶を捨ててしまったのか、ということ。  だが真っ先に思い当たるのは、乾いた胸を裂くような事実。 「俺が、元に戻ってほしいと願ったのが悪かったんだ」  そうとしか考えられない。俺が期待してしまったから、あの布団の中で冬華は決意してしまった。プラネタリウムを見た帰りの車内での言葉も、今思えば何もかも決まった後での通告でしかなかった。春を届けた日々のすべては、冬華にとっては元の場所に戻るための通過点にすぎなかったんだ。  奈々はすぐに口を開こうとはしなかった。ある程度考えを整理するように間を置き、それから言葉を発する。 「誰が悪いとか、そういうのはないと思う。だってそれを言い出したらきりがないから。あたしにだって綾崎センパイをあんなふうにした一因がある。原因ばっかり探っていてもきりがないよ」 「そもそもの話をするなら、そうなるのかもしれない。でも、冬華の現状を作るきっかけになったのは、間違いなく俺の不用意な言葉のせいなんだ。そこを見ないふりするわけにはいかない」 「責任感はご立派だけど」  奈々はどこか寂しげだった。 「その不用意な言葉っていうのも、今の綾崎センパイは忘れているんでしょ? シュンさんが頑張って支えてきた日々を、あの人は忘れちゃったんでしょ? そんな仕打ちを受けてもまだ、あの人のために尽くすっていうの?」  何もしてないなんて、そんな悲しいこと言わないで。  奈々はそう言って目を伏せる。俺は返す言葉が思いつかなくて、ただ壁の色を見つめていた。  どうすればいいのだろう。どうすれば、よかったのだろう。  きみに会いたいと願ったところから、ボタンの掛け違えは始まっていた。俺は最初からどうしようもなく間違えていて、辿り着く先に整合性なんてありはしなかった。  なら何もしなければよかったのか? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。どこかにあったかもしれないのだ、本当の答えが――  馬鹿馬鹿しい。  何が答えだ。何が間違えてない、だ。誰よりも俺の間違いを知っていたのは、冬華だったんじゃないのか。 「蝦夷川先輩のことを笑えないな、俺も」  ずっと傍に居た人の心さえ見誤っていた俺を、彼は笑うだろう。侮るような口調で、お前だってそうだったんじゃないか、と。そうしてもらえたほうが、いっそ清々しい。  しばらく俯いていた奈々が顔を上げた。そこにはもう寂しさと取れる要素はなくて、夜が朝に切り替わったかのように、明るさの宿った表情があった。 「ひとつだけ、あたしにできることがある」  その眼差しは真剣そのもので、言葉にも熟考したぶんの重みが乗っている。彼女は彼女なりの葛藤で、ひとつの岐路に立とうとしていた。  なら俺も、ここで立ち止まっているわけにはいかない。 「教えてくれ。それが俺に手伝えることなら、なんでもする」 「うん。シュンさんならそう言ってくれると思ってた」  奈々は笑い、俺も笑う。こちらは半ば無理やり作った表情で、奈々ほど上手くは作れていないかもしれない。でも案外、気分は悪くない。  奈々はその大きな瞳でじっと俺を見つめ、それからゆっくりと話し始めた。
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