第三章 清麗

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「さっき言った、あたしが綾崎センパイをあんなふうにした一因だ、ってところから話をさせてほしいんだ。ちょっと長くなるかもしれないけど、聞いてほしい。  おにいさんも知っているとおり、あたしは綾崎センパイが苦手だった。小学生のときからうっすらと、この人とは合わないなって思ってた。何より将棋でまったく歯が立たなかったから、元から相性は最悪だったんだろうね。いつかは勝ちたいって思いながら、この人に勝てないのもしょうがないのかな、なんて考えたりもした。  尊敬、してたんだと思う。センパイはあたしの目標だった。  センパイに勝てるあたしになれば、見えるものがあると確信してた。あの人を追って実戦を重ねていくうちに、周りはあたしより強い人ばかりになったけど、センパイはやっぱり格別で。伸び悩んでなかなか棋士になれなかったあたしと違って、あの人は他の棋士とも互角以上に渡りあってた。  羨ましかった。どうやったらそんなふうに強くなれるんだろう。何度も一緒に棋譜の検討と戦型の研究をした。少しでも近づけるようにって、あの人から強くなる方法を盗もうとした。  それでわかったのは、そんな裏技なんてどこにもないんだってこと。そこにはただ、純粋な努力の積み重ねの差があるだけだった。あたしの姉弟子は天才でもなんでもなくて、とにかくがむしゃらに頑張っているだけだったんだ。その努力さえ、そこまで得意じゃなかったっていうのに。  元からあの人がそういう人だったわけじゃないことも、あたしは知ってた。周りから期待されて、それに応えなくちゃならなくなって、それで無理をするしかなくなったことに、ずっと見てきたあたしだから気がついた。  だけど師匠は言うんだ。棋士は誰しも大きな壁に突き当たる。越えられるかもわからないような大きな壁だ。それを自力で乗り越えらないなら、この先どのみち潰れることに変わりはない、って。  反論はしなかった。そんなことはあたしにだってわかってたから。誰かが救いの手を差し伸べてくれるほど、棋士の世界は甘くない。期待に応えようとするのだって、センパイが勝手にやってることだし。無理ならさっさと見切りをつけて、下手な背伸びをしないで自分の許容限度を守ったほうがいい。それが現実。  でもそんな現実なら、いっそぶっ壊れたほうがましだ。  あたしはどうにかしてセンパイを止めようと決めた。中三で女流棋士になって、それはもう遅いくらいだったけど、公式戦で当たればあの人の何かを変えられると思った。  そうしてやっと対局できたのが、十二月。あの日のことは忘れもしない。将棋盤を挟んで対面できるのが楽しみでしょうがなかったあたしが、ひと目見ただけで何も言えなくなったこと。  綾崎センパイの顔は真っ白だった。普段から肌色の薄い人だったけど、今日は必要以上に濃い化粧をしてるとすぐにわかった。そこまでしなきゃ顔色の悪さを誤魔化せなくなってたんだと思う。その証拠に、駒を持つ指先はずっと震えてた。  限界だったんだろうね。こんなになるまであたしを待っててくれてたんだ、なんて都合の良いことは思わなかった。ただただ自分ののろまさを呪ったよ。  もっと早くここに来なくっちゃいけなかった。そうできなかったのはあたしが弱かったからだ。なりふり構わずに努力する意志の強さが、あたしにはなかったからだ。  後悔で頭の中がめちゃくちゃになって、あたしは対局どころじゃなくなってた。早いうちからミスを連発して、普通の公式戦だったらさっさと咎められてゲームオーバーになる、はずだった。  でも、そうはならなかった。  あの人は明らかに手を抜いていた。  よりにもよって、このあたしに」    * 「――あとの結果は、シュンさんも知ってるとおり。それ以降綾崎センパイは棋戦を休場して、二度と出てくることはなくなった。あたしが、あの人の息の根を止めてしまったから」  それが冬華を引きこもりにした、ひとつの要因。  奈々は感情を抑圧しながら語っていた。けれど途中から眉間に皺が寄って、目つきが鋭くなっていくのを俺は見た。繕いきれない感情の断片には偽りのない説得力があったから、なおさら見逃すことができなかった。  かつて冬華が、俺は奈々と気が合うと言っていた。その意味が少し、わかった気がする。 「つらい役回りだったんだな」  軽い言葉だった。奈々のつらさは、俺が想像するよりもずっと根深いものだろう。 「でも、その役回りを果たしてくれたのが奈々で良かった」  奈々が俺を睨んでいた。下唇を噛んで、苦汁を呑んだ表情で。 「介錯を任されて、光栄だなんて思えないよ」 「それでも、だ」 「想像だけで物を言わないで。最後の対局相手があたしじゃなくても、綾崎センパイは――」 「そうじゃない」  奈々の勘違いを、俺は遮る。 「俺が思っているから、想像じゃない。名前も知らないような他の棋士より、君が最後の相手になってくれて良かったって、俺が思うんだ」  こんなに自分のことを想ってくれる後輩に引導を渡されて、冬華も本望だっただろう。  それは結局想像で、実際の心境は当人に訊くしか知るすべがないけれど、俺はそう信じてみたいと思った。  でないと報われない。奈々も、冬華も。 「だとしても、あの人があたしを裏切った事実は変わらないよ」  奈々はもう表情を作るのをやめたのか、険のある顔つきのままで言った。 「あたしが綾崎センパイを嫌いになったのは、あたしに全部を押しつけたから。将棋みたいな地味な競技には、話題を作れる花形が必要。それを担ってたセンパイが潰れたから、後釜にはあたしが据えられた。無愛想だなんだって今まで見向きもしなかったくせにね、急にみんなしてあたしを担いできたんだ。心底気持ち悪かったよ」  幸いにも奈々には、冬華以上に様々なことをこなす才能を持っていた。押しつけられた役割を現在全うできているのも、期待に応える素質とそれを磨く努力があったからこそ。  しかしそれを冬華が見抜いたうえで託したかどうかは、奈々にとって何の関係もないのだろう。自分が耐えられなかった苦しみを妹弟子に移したことには変わりがなく、奈々が冬華を憎むのも当然だと理解もできる。  そのうえで疑問に思う。奇しくもそれは、先程自分に対して投げかけられた問いとよく似ていた。 「そこまでの仕打ちを受けて、どうして奈々は冬華を直そうとしてくれるんだ?」 「……このままじゃ不公平でしょう。向こうから一方的にやりたい放題されて、こっちから何もし返せないんじゃ腹の虫が治まらない」 「直してから、けじめをつけるってことか」 「そんなお利口さんみたいな手順は踏まない」  奈々は今日一番の生き生きとした様子で、それを告げる。 「長くなっちゃったね。でもこれでやっと、本題の話ができるよ――」
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