第三章 清麗

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 奈々が企てた、冬華の直しかた。  それは荒療治と言ってもいい、極めて乱暴な方法だった。 「三年前の対局を再現する。そこでもう一度決着をつければ、また綾崎センパイはアナグマに戻るよ」  大学のキャンパス内でそれを聞いたとき、俺は奈々の正気を疑わざるを得なかった。  トラウマになった出来事を再現する。それが記憶喪失への対処として最悪手だということくらいは専門的な知識のない俺にだってわかった。だから当然初めは拒んだのだが、奈々は続けてこう言った。 「センパイが引きこもりになった理由と、記憶を消した理由は別物でしょ。っていうより、シュンさんが言うところの白い綾崎センパイが生まれるきっかけになったのが、あの対局なんだから」  三年前の対局があったから冬華は白くなった。そしてその記憶を失ったからそれ以前の冬華に戻った。確かに因果関係の辻褄は合う。  だが、やはりショック療法的なのは否めない。あくまで目的は冬華の記憶を取り戻すことであって、外界を拒絶していた頃の精神性に戻すことではない。再び心に傷を負ってしまえば、それこそこの一年でやってきたことが無に帰す可能性もある。 「無駄にはならない。絶対に」  俺の心を見透かしたように、奈々は言った。 「あたしには綾崎センパイに仕返ししてやりたい。重荷を他人に背負わせておいて、自分は都合良く忘れるなんてことも絶対に許さない。でもそれ以上に許せないのは、シュンさんとセンパイがずっと積み重ねてきた日々が、単なる悲劇で片付けられてしまうことだよ」  悲劇は嫌いなの。だって、不公平でしょう。  耳に残るその言葉を信じ、俺は奈々の『仕返し』に加担することを決めた。当時の対局環境を可能な限り再現するために師匠の足立さんを頼り、冬恵さんにも協力してもらった。そして冬華本人には、俺が説得に当たった。  冬華は拒まなかった。いや、拒む理由は彼女の中にはなかったのだろう。何しろ冬華にとって奈々は、自らの首を委ねるほど信頼していた相手なのだから。  俺は一抹の罪悪感を覚えていた。この期に及んでもまだ定まりきらない決意。こんな迷いを何十何百と繰り返さなければ、前に進むことはかなわない。  冬華も俺の逡巡には気づいている。それでも俺の選択を答えだと信じ、ここまでついてきてくれた。そして今は対局のため、屋敷の別室で準備をしている。  俺にはもう、見守ることしかできない。 「安心しててよ、おにいさん」  対局前の緊張感を背負ったまま、奈々はなんてことないふうに言う。 「あたしが悪役を担ってあげる。だからあなたは、あの人の帰る場所になってね」 「ああ。わかった」  対局まであと十五分。  そこから始まるのは、あの日の再現か――それとも。    *  床の間を除いた三方を襖で囲まれた六畳間。そこがこの屋敷の対局室と呼ばれる部屋だった。  奈々の話によれば、屋敷の先代の持ち主だった棋士が特別に(あつら)えたそうで、一時期はタイトルのかかった番勝負にも用いられたという。今はその役割を他に譲ってはいるが、有事の際にはいつでも利用できるようにと、常日頃から清掃がなされているそうだ。  実際その部屋に足を踏み入れたとき、得も言われない感触を覚えた。思考の邪魔になりうるものを極限まで排除したような、いきすぎた潔癖さすら感じる。  部屋をぐるりと見渡して、俺は自然と納得する。確かにここは、冬華と奈々が相対する場所にふさわしい。中央に置かれた盤を挟んで両者が向き合えば、まるで鏡写しのように見えることだろう。  左右対称。曇りのない空間。心のありようを映す鏡面。  ここだけは三年前の焼き増しではなかった。日付も開始時間も同じだが、場所は奈々が指定して足立さんが許諾した。それが必要なことであると、どちらも理解していたからだ。  あとから入ってきた奈々が、手前側の座布団の上に着座する。既に集中を始めているのか、俺には見向きもしない。俺も話しかけることはせず、下座の襖から対局室を離れた。  縁側に出ると、廊下の向こうに人影を見つけた。露草色の着物と、真珠色の帯。長い黒髪は綺麗に結わえられており、雪の結晶のような意匠の(かんざし)が挿してあった。  できるだけ足音を忍ばせて歩く。しかし気配で伝わったのか、彼女は俺が声をかけるよりも先にこちらを向いた。 「冬華」  名前を呼ぶと、彼女は柔らかく微笑んだ。  懐かしい雰囲気だ、と思った。幼なじみとしての冬華ではなく、天才女子高生棋士として持て囃されていた頃の冬華が、そこに居た。 「対局の前に会えて良かった」  唇に差した紅色がゆるりと動く。 「不思議な気分だったんだ。今にも幽体離脱してしまいそうなくらい、自分が覚束なかった。この勝負着に袖を通すのも随分と久しぶりだと感じる。記憶の上では、せいぜい二か月ほど前なんだけれどね」 「似合ってるよ」 「ありがとう。ふふ」  背筋を伸ばした冬華の顔は、いつもより近くにあるように感じられる。不安や緊張はもちろんあるだろうけれど、それに勝る高揚のようなものが表情に滲んでいた。 「わたしはまた、岐路に立っているんだね」  一旦は襖に伸ばしかけた手を、胸の前で握りなおす冬華。 「このまま対局室に入るのは心細かった。かといってシュンを探そうにも、対局前に慌ただしくするのはよくないと思った。だからこうして会えたのは、運がわたしに味方をしているってことなのかもしれない」 「将棋の勝ち負けに運が絡むなんてことがあるのか?」 「ない、と言ったほうが誠実だろうね。わたしはそうとは言いきらないけれど、あの子ならきっと無関係だと言う。間違いなく」  あの子、というのが奈々のことを指すのは明らかだった。彼女は襖を数枚隔てた先に居て、冬華が来るのを待っている。 「わたしは一度もあの子に将棋で負けたことはないんだ。でもそれは相手がグーしか出さないことを知っているようなもので、勝たないでいるほうが難しかった。あの子からすれば悔しくてしょうがなかっただろうけれど、わたしもわたしでわざとチョキを出すような真似はしたくなかった」 「勝負は対等じゃないと成り立たないから」 「うん。あの子も同じことを言ってた」  それはそうだ。これは奈々の言葉なのだから。 「あの子はわたしがパーを出していることに気づいていなかった。長い間一緒に将棋を指していたのに、不思議だよね。あるいは固定観念に囚われて、わたしの一側面しか見ようとしていなかったのかもしれないけれど」  ――人には必ず二面性がある。たった二つだよ。それだけ見抜けば、全部わかる。  本当はたった二つでは収まらないくらい、人の内面は多様な側面で溢れているのだろう。でも語義はそうではなくて、今見ている面以外にもう一つの面があるということを想像しなければいけない、というのが正しい。  俺にも奈々にも、冬華にだって見えていないものがある。それを『ない』と断定するより、『あるかもしれない』と考えたほうが、きっと人は優しくなれる。  そして『あるかもしれない』が『ある』という確信に変わったとき、はじめて自分の行いを認めてやれるような、そんな気がする。 「シュンを探さなかった理由」  悪戯を隠す子供のようなそぶりで、冬華は言う。 「さっきは慌ただしくするのはよくないからと言ったけれど、実はもうひとつあってね。もし対局の前にあの子と遭遇したらと考えたら、怖くて動けなかったんだ」 「その気持ち、わかるよ。俺も彼女と会うのは怖い」 「へえ、どうして?」 「だって、殺し屋みたいな目つきをしてるから」  冗談めかして言ってみたが、冬華の反応は芳しくなかった。きょとんとした顔ではてなを浮かべつつ、俺の首元あたりを見つめている。  だがそんな沈黙が数秒続いたあと、冬華は砕けるように笑いだした。 「あはははっ! こ、殺し屋って、またひどいたとえだねえ!」 「そんなにおかしかったか?」 「おかしいよもう! 人が真面目に考えてるのが馬鹿馬鹿しくなるくらい!」  屈託なく冬華は笑う。先日の動物園でも見た、周りを明るくする笑顔だった。  本当は知っている。冬華が、奈々にどう思われているかを気にしていることを。奈々を憤らせてしまっていて、許してはもらえないだろうとまで薄々勘づいているということを。  怖れるのは当然だ。だから的外れなことを言った。怖さを上回る別の感情が、視界を遮る霧を晴らすと信じて。  彼女はひとしきり笑ったあと、吹っ切れた様子で俺の目を見つめる。 「この対局が終わったら、シュンに聞いてもらいたいことがあるよ」  どこかで聞いたような台詞。けれど冬華の口から聞くのは初めてで、そこには確固たる決意があった 「とても大事な話なんだ。だからシュンには、わたしが勝てるよう応援してほしい」 「わかった。がんばれ」 「うん。がんばる」  三年前と違うのは、場所だけじゃない。  俺が傍に居て、声をかけられるということ。  それが彼女の支えであってほしいと、心から願った。
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