第三章 清麗

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 午前十時――対局開始。  対面する二人を、俺は客間のモニター越しに見ていた。  対局中、あの場には立会人の足立さんと記録係を務める門下生しか立ち入れないことになっている。より当時の再現性を高めるためだという話だ。けれど、そういった配慮は気持ちの上での効果しかないことを、俺は理解していた。  言ってしまえば、冬華は三年前の対局を再体験する必要もないのだ。  ただ、自分とは向き合わなければならない。  これは彼女が捨て去った記憶を、拾い集めるための儀式なのだから。  ――対局は滞りなく進んでいった。先手の奈々は攻守のバランスがよい陣形を手早く作り上げる。対する後手の冬華は、守りに重点を置いて王将を堅く囲っていく。互いに得意とする戦型で戦う準備を整えていた。  奈々との指導対局でこっぴどくやられたとはいえ、俺も少々の素養はある。最低限戦局の優劣は把握できるようにと、今日のために将棋の勉強はしておいた。おかげで今の局面が、出来過ぎなほどに静かな展開であることにも気がついた。  基本的に、将棋の局面は序盤、中盤、終盤の三つに分けられる。序盤は攻守の戦型を定め、中盤に駒がぶつかり合って開戦し、終盤で玉・王を追い詰める。ほとんど守りを固めずに攻める急戦と呼ばれる戦型であれば、序盤はほんの僅かでいきなり中盤、終盤と進むこともある。  だが、この対局では序盤が長々と続いている。守りを堅くするのには手数がかかる都合上、奈々から駒を繰り出して中盤に突入するのが自然な成り行きのはずだった。  奈々が攻めるのを躊躇う理由はない。身も蓋もない言い方をするなら、そもそも現役の棋士が三年もブランクのある相手に躊躇すること自体、ほぼありえない話なのだ。  奈々も再び冬華の首を落とすつもりで、あの場に座っているはず。にもかかわらず攻めていない――  いや、違う。  攻めないんじゃない。攻めることができないんだ。  囲いを組み上げているさなかでも、攻め入る隙のない布陣。開戦のために動いた駒を受け流し、冬華は巧みに中盤への移行を拒んでいる。  まるで現役の頃から衰えのない指し回し。にわかには信じられないが、冬華は本当に三年前の精神状態に戻っていて、奈々とも互角以上に渡り合っているということになる。  定点に置かれたカメラでは対局者の表情をつぶさに観察することは難しい。画面に映る範囲では、二人が盤上以外に視線を逸らさない様子しか窺い知れない。それでも奈々が焦っていることだけは、スカートの裾を握る右手から察することができた。  そして、対局開始から一時間半。  冬華の穴熊囲いが完成し――戦いが始まった。    *    *    *  戦いが始まった――わたしはささやかな指先の震えを感じながら、保留していた攻めの一手を選択した。  対局の前からあった不思議な浮遊感は、対局が始まると更にひどくなった。まるで自分の背後から肩越しに盤面を眺めているみたいになって、視点がうまく定まらない。手を動かしている自分の身体すら、他人のもののように見えてくる。  わたしが将棋を指すのは三年ぶりのことらしい。  自分ではほんの数か月前まで、週に二、三回のペースで対局していたつもりだ。タイトル戦の予選トーナメントで勝てていたおかげで、対局数が増えていろんな人に褒めてもらうことができた。それがわたしの、嬉しいことのひとつだった。  褒められると、頑張ってよかったと思える。費やした時間には意味があったんだって、自分ではなかなか認めてあげられないから。大抵は自分の努力なんてまだまだ足りないとしか思ってあげられないから。  そんな考え方が染みついていると、だんだん自分が何をしているのかわからなくなってくる。努力をするのは呼吸をするくらい当たり前で、呼吸をしているだけならそれは何もしていないのと変わらない。努力をしないというのはつまり、死のうとすることと同義だ。  そう、わたしは死のうとしていた。  漠然とそんなことを考えていた気がする――なにぶん記憶喪失の前後はあやふやで、どこまでは覚えているのかすら、わたしには把握しきれていない。  死のうとしていたというのだって、本当に自分がそう思ったのか疑わしい。生命活動を停止したいという意味でないのは明白だったけれど、努力をやめたいと思ったというのも自分らしくない、信じがたい発想だった。  目下では局面が進み、互いの攻め駒がぶつかり合う中盤が展開されている。今わたしは将棋と関係のない物思いをしているけれど、それとは別に将棋に集中している自分もまた並行して存在している。その彼女(じぶん)が、粛々と最善手を選んで指していた。  戦況はたぶん、わたしのほうがやや優勢だ。  将棋は、先に相手の玉を詰ませたほうが勝つ。だから中盤まで戦力が拮抗していた場合、より玉を堅く囲って詰みから遠ざかっていたほうが優勢になる。わたしの囲いは穴熊で最も堅く、相手の囲いは堅さよりも身軽さで戦う形。こちらが戦力的に損をするような交換を避けつつ、このまま終盤に入ることができればほぼ勝勢だ。  大丈夫。負けることはない。だってこれは、いつものパターンだ。  ――ほんとうに、そう思う?  声が聞こえた。真正面から。  だけど目の前に居るセーラー服の彼女は、前のめりに盤面を睨むばかりで声を発した様子もない。何より聞こえた声の質がまったく違う。彼女の声はもっとはきはきとしていて、少しとげとげしい部分がある。今聞こえたのは、それとは真逆のものだった。  つまり、たどたどしくて、ほのぼのとした、この場に似つかわしくない声。  ――ほんとうに、自分の指した手が最善手だって、そう思う?  温かい、陽だまりのような声だ。なのにわたしは、その声をあまり聞いていたいとは思わなかった。  声は言う。  ――あなたは前にも同じようにして、失敗した。  ――最善だと信じた手立てが、結果的に多くのものを歪めてしまった。  ――なのにどうして、まだそれが正解だって信じられるの?  ああ、やはりこの声はわたしのものだった。  わたしの失敗を、悪手を、誤解を、誰よりも糾弾するわたし。わたしのすべてが塗抹されたあとに生まれた、真っ白なわたしだ。  わたしは彼女を覚えていなかった。でも彼女はわたしを覚えている。わたしが耐えられなかった痛みを、わたしの代わりに引き受けたのが彼女だ。  そしてそんな彼女を、わたしは用済みとして切り捨てた。  どうしてわたしはそんな選択をしたのだろう? その理由すら、わたしは記憶とともに忘れ去ってしまった。微かな残滓の声は答えを告げることなく、問うばかり。  思い出さなきゃいけない。誰にも頼らず、自分の手で、この場所で。  ――あなたはいったい、何を愛しているの?  気づけばわたしは、わたしと向かい合っていた。彼女の長い髪は絹糸のように白く光っているようにみえる。それは湖面に映る月と同質のものだと、考えるまでもなく理解した。  理解したうえで、わたしはそこへと手を伸ばす。  すると視界が霞み、目の前に真っ白なスクリーンが下りた。からからと、映写機を回す音がどこからともなく聞こえ始める。  再上映(リバイバル)。  わたしはこの物語に、どんな名前をつけられるだろう。
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