第三章 清麗

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 将棋が大好きだった頃の自分にはもう戻れない。  じゃあわたしはどうすればいい? たくさんの人がわたしに期待して、わたしが世間の注目を集めることを望んでいた。好きじゃなくなったから辞めます、なんてとても言える雰囲気ではなかった。   どこで間違えたんだろう。どこで失敗したんだろう。奇しくもそれは、負けた対局の後で行う感想戦と同じ思考のルーティンだった。自分の敗着を明らかにすることで次に活かす、それが何千回と繰り返してきたわたしの努力。  でも、今度ばかりはいくら探したって答えが見つからなかった。  これがなるべきこととしてなったことなら、わたしはこの苦しみのために将棋を続けてきたことになる。泥の沼に自分から足を踏み入れて、無邪気に泥遊びをしていたら、出ようと思ったときには肩まで浸かっていた感じ。あとはもう、沈むだけ。  そんな頃に二つ、喜ばしい出来事があった。一つは、シュンがスポーツ推薦をもらって野球の強い高校に進学が決まったこと。もう一つは、ナナが正式に女流棋士になったこと。  どちらもこれまでの努力が実った結果で、わたしは本当に嬉しかった。自分のことのように、と言うと語弊がありそうだったから、姉のように喜んだ。  わたしももうちょっとだけ頑張ってみようと、そう思った。  沼の底で、わたしは足掻いた。呼吸のできるところまで這い上がると、いくらか気持ちは楽になった。勝っている限り、期待に応えられている限り、わたしはわたしを肯定してあげられる。  だけど、やっぱり駄目だった。泥を掻き分けられる体力はとっくに尽きてしまっている。少しずつ近づいてくる終わりの足音を、ただ黙して待つしかないように思われた。  このままわたしは棋士としての死を迎えるのだろうか。だとしたら最期は苦しくないほうがいい。苦しみから解放されるときくらい、安らかに――  その日の対局相手は、ナナだった。  将棋を辞めるんだと決めたときから、最後の対局はナナとの公式戦にしようと心に誓っていた。それ以外の人は考えられなかった。誰よりもわたしを慮ってくれた彼女にこそ、わたしは首を切られたい。  でもそれが最もやってはいけない間違いだったことに、対局のさなかで気がつく。  ナナはとても緊張していた。普段の彼女ではありえないミスを何度もし、中盤に入る頃にはほとんど勝負は決していた。  このままわたしが勝てば、またひとつの話題が生まれるだろう。『姉妹弟子対決、姉弟子の圧勝』――そうなれば、わたしは棋士を辞めるに辞められなくなる。妹弟子が姉弟子に勝つまでの物語を、大衆は期待するだろうから。  そしてわたしには、その物語を最後まで作り上げる気力は残されていなかった。  限界だった。何もかも。ここで終わらせるつもりだった。他に選べる選択肢はない。  あろうことかわたしは手を抜いた。ナナが手加減を何よりも嫌うことをわかっていながら。当然ナナはすぐに気づき、迸るような怒りとともにわたしを攻めたてた。  そこからは目を覆いたくなるような混戦だった。互いに持ち時間をいっぱいに使い、先の見えないまっくらやみをもがきながら進んだ。全身が傷だらけになったみたいに赤く、熱くなっていた。痛くて痛くてたまらなくて、どちらが先に泣き叫んでもおかしくなかった。  勝ったのは、わたしだった。  感想戦はなかった。ナナは唇を強く噛んでいたのか、口元からぼとぼとと血を流していた。そして周りの心配する声もきかず、弾かれるように対局室から去っていった。  その場に残されたわたしは、戸惑っていた。思っていたことと違うじゃないか。わたしはここで終わりにしたくて、ナナに首を差し出すために隙まで作って、負けるために戦っていたんじゃないのか。  なのにどうして、こんなに必死になって戦って、勝ってしまったんだろう。  ――こういうときばかり、わたしはすぐに答えを見つけてしまう。  それはわたしが、どうしようもなく負けたくなかったからだ。どんなにつらく苦しいものだと思っていても、心の底では将棋というものを好きなままでいたからだ。  それを自覚したわたしは、言いようのない恐怖に襲われた。自分の中に怪物がいるような気がした。そいつが死にたがりのわたしの身体を動かして、大事な人を傷つけたかのようだった。  でもその怪物だけが悪いわけじゃない。そもそもナナを傷つけるような選択を最初にしたのは、他でもないわたし自身なのだから。わたしの中に怪物がいようがいまいが、その罪は切り離しようがない。  自分の好きなもののためなら大事な人さえ傷つけても構わないと、わたしは無意識のうちに考えてしまっていたのだ。それがどんなに悍ましくて、汚らわしかったか。  そうしてわたしは――好きという感情が、怖ろしくてたまらなくなった。  何かを好きになることで、わたしがまた誰かを傷つけてしまうことが怖かった。活けられた花も、歩道を横切る野良猫も、親しい友人さえも。わたしが好ましく感じる可能性のあるものは、目に映るだけでわたしの中にある怪物の存在を否応なく意識させた。  この世界から、わたしが平静でいられる場所は急速に失われていった。  家にこもり、部屋にこもり、布団の中にこもり。  外界との接点を、極限まで断った。  夢を見ることもなくなった。  もう何も感じなくなった。  綾崎冬華は、死んだ。  そのはずだった。  染井俊が、帰ってきた。  彼はわたしを忘れていなかった。  外の世界から春を届けに来てくれた。  わたしは彼に会いたいと思うようになっていた。  だけど。  わたしはもう、きみの知ってるわたしじゃない。  真っ白で、何もない。きみが好いてくれたわたしは、ここにはいない。  ≫こんにちは。俺は冬華に会いたい  きみのいう冬華は、ほんとにわたしのこと?  きみの求めているわたしに、わたしは戻れるのかな?  ≫わたしもあいたい  好きなものがたくさんあった、あの頃の自分に。  世界のすべてがうつくしく見えていたわたしに、わたしは会いたい。  シュンはとても優しかった。わたしのために、自分は会わないほうがいいなんて言う。かと思えば同じ口で、自分は嫌われても構わないなんて嘘をつく。その優しさは、彼が届けてくれる春と同じくらいに温かかった。  わたしはもう、何も嫌いになりたくなかった。わたしのことをこんなに慮ってくれている彼を、嫌いになるなんてもってのほかだ。  ひとつ、問題があった。  今のわたしには好きという感情がわからない。心が氷漬けになったみたいに動かなくなって、何を見ても感慨が湧かない。それは長い冬眠の弊害だった。  シュンが動物の映っている動画を送ってくる理由も、最初はシュンの好きなものを見せてくれているのだと思っていた。だけど彼に尋ねてみると、わたしが動物を好きだったとお母さんから聞いて、それから動画を探すようになったのだという。  その事実を知って、わたしはとても悲しくなった。何かを好きになる気持ちを放り出してしまったことを強く強く、後悔した。  このままのわたしじゃいけない。焦りそうになったわたしを、シュンはすぐさま引き止める。自分の思う自分でいればいいんだって、今のどうしようもないわたしさえ肯定しようとしてくれる。なんて向こう見ずで、切ない優しさだろう。  彼との距離は心臓の音が聞こえるくらいに近くて、なのにときどき遠く離れているように感じる。それはきっとわたしが、彼への気持ちを見失っているからだと思った。彼は鼓動の高鳴りでわたしへの好意を教えてくれるけれど、その好意が何でできているかが、わたしには理解できない。  そんなわたしに「俺はここにいるよ」と教えてくれたシュン。  好きか嫌いかなんて関係ない。ただ傍にいてくれるだけで、わたしは嬉しかったんだ。  穏やかに過ごしたゴールデンウィークは、白いわたしの宝物になった。そしてわたしが変わっていくための、充分すぎる理由になった。  わたしは、シュンの隣に居たい。  そのためになら、わたしは何度だって立ち上がれる。
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