第三章 清麗

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   *    *    *  時刻は午後六時を回ろうとしていた。  対局はまだ続いている。冬華はまるで抜け殻になったように虚ろな目をしたまま盤面に向かっていた。奈々も、目を赤く充血させながら駒を睨みつけていた。  しかし局面は既に終盤だ。とっくに持ち時間は使い切っていて、あとはもう一手ごとに一分未満の猶予しかない。残っているのは、時間との勝負のみ。  攻勢を維持していた冬華の手が、中盤のあるときを境に伸びなくなっていた。また手加減をする理由はない。冬華の目から生気が急速に失われていったのは、そのあたりからだ。  その隙を奈々は逃さず攻めに転じた。少しずつだが着実に穴熊の外壁を削り、ついに王将へと手が届き始める。それがほんの十数分前のこと。 「冬華が棋士を辞めてから、将棋の常識は大きく変わった」  対局室を離れて客間へやってきた足立さんが、静かに言う。 「数年前まで、将棋は囲いの堅さがものをいう勝負だった。だが近年、高性能なAIによる棋譜の研究が進んで、必ずしも堅ければいいという話にはならなくなってきた」 「穴熊はもう時代遅れの戦法ということですか」 「いいや。今でも囲うことができればとても有力だ。そして実際、冬華が囲いきるのを奈々は阻止できていない」  ただ、と足立さんは付け加える。 「この三年間、あの子は徹底的に穴熊の壊し方を研究してきた。いつかもう一度冬華と戦うときに、穴熊に囲わせたうえで叩き潰すためにね」 「……うわあ」  声が出た。執念というか、そこまでいったら立派な殺意だ。  奈々はずっとこの日を待っていたのだ。元の記憶がどうこうなんてのはこの対局のための理由づけでしかなくて、ともすれば俺に接触してきたのだって目的を果たすために利用できると踏んだからだったのかもしれない。  殺し屋というあの冗談が、現実味を帯びてきて笑えなかった。 「勝ち負けで言うのなら、既に大勢は決している。あとはどんな形で、この将棋が終わりを迎えるかだ」  足立さんの発言に、俺は息を呑む。  きっと勝つのは奈々で、負けるのは冬華だ。いくら冬華が全盛期と同等の棋力があったとしても、当時から三年間前線で戦い続けた奈々に勝てるはずがない。一方的な展開にならなかったのは、やはり二人の相性によるものなのだろう。  モニターの向こうで、冬華に動きがあった。  ほとんど駒を移動させるだけの日本人形と化していた冬華が、唐突に顔を上に向けた。そしてぱくぱくと口を動かした。まるで息継ぎでもするかのように。  戻ってきたんだ、と直感した。冬華は自分と向き合い、鏡の中から抜け出してきた。  それと同時に、畳の上で奈々の右手が動く。  定点カメラが捉えるそれは――ピースサインだった。 「……あははっ」  つい俺は笑ってしまった。  そこに込められた意味の数を思えば、出来過ぎという気さえする。  うん、そうだよな。この話は悲劇であっちゃいけない。だから奈々も俺も、悲観しない。冬華をきちんと直すために、得意げに笑ってみせる。それが正しい振る舞い方だ。  奈々は宣言どおり、悪役に徹してくれた。冬華を深い思考の底へと蹴落としておきながら、そこからまた無理やりに引っ張り出すという傍若無人な役割を。  だったら、その先は俺の役割だ――  局面はさらに進んで、初級者から見ても明らかに冬華が不利だとわかるようになっていた。手持ちの駒の数からして大きく差が開き、冬華の王将は完全に包囲されていた。  反撃の余地もないほどに追い詰められても、冬華は投了をしなかった。もう勝ち目はないというのに、一手一手の意味を噛み締めて、駒を置いた。  静かで重い、時間が流れていく。そして。  午後六時二十七分。  綾崎冬華は、負けを認めた。  対局室はもぬけの殻だった。  居合わせていた門下生の少年に訊くと、対局後すぐに奈々が冬華の手を引いて玄関のほうへ出ていったという。それを聞いた足立さんは、彼女らが向かったであろう場所への行き方を俺に教えてくれた。  外は真っ暗だった。だが迷いはなかった。街灯と家々の明かりに導かれるようにして、俺は知らない街の知らない道を歩いた。二人が目的地に着くまでに追いつかないよう、出来る限り、ゆっくりと。  頬に肌寒さを感じ始めたころ、路傍に小さな鳥居が見えた。そこはちょうど背の高い建物に挟まれて、屋外灯の光も届かない陰になっているようだった。近づいてみると奥に小さな社があって、西瓜くらいの大きさの提灯(ちょうちん)がぶらさがっているのがわかる。その明かりが、二つの背中をぼんやりと浮かびあがらせていた。  鳥居の陰に身を潜める。もう一度離れようかとも考えたが、彼女らの会話への興味がまさってしまった。盗み聞きなんて、あまり褒められた行いではない。  冬華と奈々は、社に頭を垂れたまま動かない。はた目から見て、随分と長い時間祈りを捧げていたように思えた。  やがて二人は頭を上げる。先に口を開いたのは、冬華だった。 「ごめんなさい」  はっきりと、血の通った謝罪だった。奈々はそれに、一瞥もくれないまま返す。 「謝らないでよ。どうせ許されないってわかってるなら」 「うん、それでも謝らせてほしい」 「そういうの、自己満足って言うの、知ってる?」 「もちろん、知ってる」 「あんたのそういうとこ、ほんと嫌いだ」  奈々は苛立ちを隠せないようだった。 「全部知ってるくせに、わざわざ地雷を踏みに来るところが。手のひらの上で転がされてるみたいで、ずっとずっと不快だったんだ」 「それも、ごめん」 「だから謝んなって言ってるでしょ」 「知ったかぶりをしていて、ごめん」  冬華は奈々のほうを向いていた。ここにある問題から、目を逸らさないために。 「自分で何でもできると思ってた。努力さえすれば大抵の困難は乗り切れるものだと信じてた。だけど、わたしは現実を知らなかった。人ひとりが抱え込めるものの限界は決まっている。知らないままで、たくさん抱え込みすぎた」 「だからいろんなものを捨てた、って? そうやって可哀想な自分を演出して、許してもらおうって魂胆?」 「ううん、違うよ」  至極冷静に、冬華は首を横に振る。 「ナナが最初に言ったとおりだ。わたしは許されないし、許してもらおうとも思わない。わたしの存在は、きっとこれからもあなたの不快な要素であり続けるんだろう。だけど、だけどね、それがわたしなんだ」  その声は清らかで、誇りに満ちていた。 「子供だったわたしも、三年前のわたしも、数か月前のわたしも、今のわたしも。全部地続きで、繋がってる。時間はいつだって真っ直ぐに進んで、わたしたちはそれにただしがみついているだけ。切り離す余裕なんてどこにもないんだよ。切り離せたように見えるのは、たまたま何かの陰に隠れて見えなくなっただけ」  きっと俺たちは、いつも何かを見失いながら生きている。  コインの裏表のように、表が見えているときは裏、裏が見えているときは表、どちらか一方を見失ってしまう。その状況で得られる正しさに、確証なんてない。  けれど、その見えないものの存在を、確信することならできる。  冬華のように。あるいは、奈々のように。 「だからわたしは、あなたの嫌いなわたしも、肯定する」  ――良かった。  冬華の選んだ答えが、悲劇的なものでなくて。祝福できるもので、本当に良かった。  それを聞いた奈々は夜空を仰ぎ、大きなため息をついた。 「あーあ、つくづくわたしは、あんたに勝てないなあ」  言葉とは裏腹に、彼女の声は晴れ晴れとしていた。 「ずるい姉弟子だよ、あんたは。その答えといい、シュンさんといい」 「ふふ、どうしてシュンがずるいのかな?」 「それも全部わかってて言ってるよね。ほんっと、ヤなやつ――」  そう言った直後、奈々が素早く回れ右をした。完全に不意を打たれた俺は、鳥居に隠れるタイミングを逃す。 「うわあ、趣味サイアクですよ、おにいさん」  意地の悪い笑みを浮かべて、奈々はこちらを手招きする。観念せざるを得なくなった俺が鳥居をくぐると、すぐに冬華と目が合った。  その頬が赤く染まって見えたのは、提灯の明かりに照らされているからか。はたまたこの冴えた冬の空気がそうさせるのか。それとも――  こんなふうに俺は想像することしかできない。  だって答えは、冬華だけが知っている。 「ただいま、シュン」  冬華は言う。  そこにはきっと、万感の思いがこもっていた。 「わたしは、きみのところに帰ってきたよ」  
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