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「地獄の鬼神が、匙を投げる程だ」
色のない唇が自嘲げに、弱々しく言葉をかさねる。
もはや自力で立っているのも大義なのだろう
「思えば、恥にまみれた生涯を歩んできたものさ」
彼の言う恥、とはなにか。夜の街をさまよい。恋や愛の名のもとに、享楽に身を置いたことだろうか。
呪いのさせた事とはいえ、多くの心中事件を起こした『恥』か――いずれにせよ、貞次が問いただすことではない。
ただひたすら、痩身の肩を抱く。
歳下である自分より、幾分も小柄な身体を。
気丈にも、着込まれていた洋装の端から見え隠れする黒髪が憎らしい。
そう。憎らしい、と思ったのだ。
(なぜ俺が)
「先生。大丈夫か」
「慣れぬ口を叩くなよ」
目を細め、まぶしそうな顔をする。
細腰の女のように、しなだれかかる男。その姿を見て、なぜだか非常に腹立たしく。そして美しいと感じた。
儚くも美しい、とはこのようなことか。
(くだらない。こやつの書く、恋物語のようだ)
ものの半分も読まず、閉じた書籍を思い出す。
可憐にて愛らしげな少女より、物憂げな人妻と情を交わす青年の話であった。
(所詮、上っ面だ)
醜さを愛せ、などと。
自分とそう変わらぬ年頃であるくせに。不遜で、傲慢。なのに妙なところで悟ったような顔をする。
もっというならば、そのような男がの命が、尽きる寸前なのが余計に気に食わない。
「あんた。生きたいって言っただろうが」
「……」
「おい」
「生きなくてはならぬ、とその口で言っただろうが」
小さな顎をつかみ、視線を合わせる。色素の薄い瞳は、小さく揺れた。
迷っているのだ。苦しいだけの生に喘ぐか、ならばいっそのこと身を任せてしまおうか。この濡れた黒髪にくれてやるか、などと考えているのだろう。
「あんたの小説、読んだ」
「そうか」
「俺には、さっぱり分からねえ。耳障りの良い、飾りたてた御伽噺だ」
「……ああ」
貞次の言葉に、修司は一瞬口の端を上げて笑う。
「かもしれないな」
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