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(気に入らねえ)
赤の他人を救いたいなどと、思ったこともない。幼い頃から、身の回りに潜む怪異。醜い姿で彷徨う亡者達の手から、泣きながら逃げ回ったこともある。
そんな貞次に拝み屋であった父、貞丁は言った。
『醜さを愛せ』
と。
夜毎、色町に繰り出し酒片手に女と戯れるような生臭坊主のいうことか。
苦々しい想いで少年時代を過ごした。
人間とは醜い。その肉体のみならず、魂までも。だからこんなに哀れな姿に成り果ててまで、生前の情念を訴え続けるのだ。
仏などいない。
いたとすれば何故、彼らをこのような形で放置できよう。
この世には、人と亡者と妖と。薄汚いモノが蠢いているだけだ。
その中で必死に、泥をすすって生きるのが人生なのだと彼は学んだのである。
「ゔっ……ぁ゙」
腕の中の男が大きく震えた。
紙のような白い肌が青ざめ、なぜか唇だけが紅く色付く。
みしり、みしり。
骨が軋むほどに締め上げる音。髪が、濡れた黒髪が奇怪な生き物のように、その肌を這い回り締め上げているのだ。
「おい」
薄く開いていた目が閉じた。苦しげな呻き声が、紅を付けたような唇から漏れる。
小さな痙攣を繰り返す四肢は、だんだんと弛緩してぐったりと身を任せ始めた。
瘴気が辺りに立ち込め、歪な形をつくりだす。
連れていかれる――そう思った。
「畜生!」
(逝かせてなるものか)
口の中で真言を唱える。
頭がきりきりと痛むが、構う暇はない。ただ必死であった。
「柚、おらんのか」
『……あい』
主の押し殺した呼び掛けに、影より出る少女。禿姿のおかっぱ頭。ゆらりと佇む、古き式神である。
「こいつを、どうにかしろ!」
『……主よ』
「その場しのぎでも良い、なんでもいいから死なせるな!」
『主よ――』
柚は、黒目しかない目を三度またたかせた。
ぬるりとした瞳だ。まるで濃密な闇を溶かしたかのような、光のない瞳。
そしてただただ、押し黙り首を振る。
『人は、いつか、死ぬぞ』
「今はそういう事を、言うているのではない!」
半ば叫ぶようであった。
とにかく死なせることはならぬ、生かして目を開かせよと。まるで駄々っ子のように喚き散らした。
(駄目だ。逝くな)
祓うことすら出来ぬ。貞次は、父のような拝み屋ではない。
祖先のように寺の坊主でもない。
何者でもなく、ただ怪異をその目に映す少年である。
(俺は役立たずか)
人一人救えぬのに、なぜその力を持つのか。
――きききき。
彼の喉にのびる髪が、嗤った。
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