六ノ刻、焦燥と秘め事

4/4
前へ
/44ページ
次へ
(気に入らねえ)  赤の他人を救いたいなどと、思ったこともない。幼い頃から、身の回りに潜む怪異。醜い姿で彷徨う亡者達の手から、泣きながら逃げ回ったこともある。  そんな貞次に拝み屋であった父、貞丁は言った。 『醜さを愛せ』  と。  夜毎(よごと)、色町に繰り出し酒片手に女と戯れるような生臭坊主のいうことか。  苦々しい想いで少年時代を過ごした。  人間とは醜い。その肉体のみならず、魂までも。だからこんなに哀れな姿に成り果ててまで、生前の情念を訴え続けるのだ。  仏などいない。  いたとすれば何故、彼らをこのような形で放置できよう。  この世には、人と亡者と(あやかし)と。薄汚いモノが蠢いているだけだ。  その中で必死に、泥をすすって生きるのが人生なのだと彼は学んだのである。 「ゔっ……ぁ゙」  腕の中の男が大きく震えた。  紙のような白い肌が青ざめ、なぜか唇だけが紅く色付く。  みしり、みしり。  骨が軋むほどに締め上げる音。髪が、濡れた黒髪が奇怪な生き物のように、その肌を這い回り締め上げているのだ。 「おい」  薄く開いていた目が閉じた。苦しげな呻き声が、紅を付けたような唇から漏れる。  小さな痙攣を繰り返す四肢は、だんだんと弛緩してぐったりと身を任せ始めた。  瘴気が辺りに立ち込め、歪な形をつくりだす。  連れていかれる――そう思った。 「畜生!」 (逝かせてなるものか)  口の中で真言を唱える。  頭がきりきりと痛むが、構う暇はない。ただ必死であった。 「柚、おらんのか」 『……あい』  主の押し殺した呼び掛けに、影より出る少女。禿(かむろ)姿のおかっぱ頭。ゆらりと佇む、古き式神である。 「こいつを、どうにかしろ!」 『……主よ』 「その場しのぎでも良い、なんでもいいから死なせるな!」 『主よ――』    (ゆず)は、黒目しかない目を三度またたかせた。  ぬるりとした瞳だ。まるで濃密な闇を溶かしたかのような、光のない瞳。  そしてただただ、押し黙り首を振る。 『人は、いつか、()ぬぞ』 「今はそういう事を、言うているのではない!」  半ば叫ぶようであった。  とにかく死なせることはならぬ、生かして目を開かせよと。まるで駄々っ子のように喚き散らした。 (駄目だ。逝くな)  祓うことすら出来ぬ。貞次は、父のような拝み屋ではない。  祖先のように寺の坊主でもない。  何者でもなく、ただ怪異をその目に映す少年である。 (俺は役立たずか)  人一人救えぬのに、なぜその力を持つのか。    ――きききき。  彼の喉にのびる髪が、嗤った。  
/44ページ

最初のコメントを投稿しよう!

19人が本棚に入れています
本棚に追加