19人が本棚に入れています
本棚に追加
/44ページ
■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫
「寒……」
冒頭の台詞である。
その後。割高な珈琲を喉に流し込み、早々に店を後にした。
そして岸根の下宿屋にほぼ無理矢理引いて行かれ、相談という名の惚気話が延々と続いたのは言うまでもない。
(何が相談だ。大学の講義よりつまらねぇ)
それでも途中で帰ったりしなかったのは、ひとえに貞次の人の良さ故であろう。
『顔は仁王だが心根は観音様だ』
と、彼の祖母がいつも口にしていたほどである。
(すっかり遅くなっちまった)
彼は気楽な下宿屋暮らしではない。
実家は帝都の端に建つ、古寺である。このご時世、都会では参る者の少ない小さな寺。そこで彼は、父と妹の三人暮らしであった。
(田舎者の坊ちゃんが色恋か。いい気なものだ)
そこには多少のやっかみも、混じっていたのだろう。
それとも街灯の乏しい路地は、人の心も暗くしてしまうのか。
(ん?)
微かな物音。いや、話し声と言うべきか。
ぽっかりと薄闇が口を開ける、悪路の向こう。
古びた石造りの橋があった。
ぼんやりとそれはまるで幽霊のように佇む影、二つ。
目を凝らせど、貞次にはよく見えない。
(やれやれ仕方ねぇ)
心の内で盛大なため息をつく。
そうして、独り言の如く呟く名は――。
「柚」
『……あい』
舌っ足らずに応えしは、人で在らず。
いつの間に現れたか、禿姿の童女が彼の背後に控えていた。
彼は目を凝らし、橋を指さす。
「見えるか」
『……女と男、そして妖が十ほど』
「十か」
『十五』
「十五か」
『百八……』
「どっちだ」
『それは、主の煩悩ぞ』
「お前ぇなぁ」
従順とは言い難し、この人ならざる童女。
『式神』である。
陰陽道において、使役される鬼神。
この寺生 貞次、式神を使役し妖術法力と呼ばれる力を有していた。
それは生まれながらにして持つもので、陰陽師とも祈祷師とも言える能力。
見えざるものを視て、聞かざるものを聴く。
妖、悪霊、呪を祓い清める。
彼は自身のそれを『霊力』やら『妖力』などと呼んだ。
『呪じゃ』
「呪、か」
『うむ』
「なかなか、いわく付きの逢瀬だな。あんな欄干端に佇んで、心中でもするんじゃあ――って、おいおいおいッ」
(本当に飛び込みやがった!)
最初のコメントを投稿しよう!