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それはあっという間の出来事であった。
激しく打ち鳴る、水面を殴打する音。
上がる水飛沫。
しかし、それも一瞬。
不気味な程の静寂が、夜道を浸す。
「くそっ」
地を蹴り駆けども、既に墨汁を垂らしたような水辺には月も映らなかった。
――こぽりこぽり、と二つ。まるで死前喘鳴の如く。
「柚!」
『あい』
言葉なく、主人の言霊を受け取りし式神。するり、と滑るように音もなく水中へ。
「どうだ」
欄干に残る、仄暗い気配に顔を顰めて貞次は問う。そこには黒く長い髪が、幾重にも巻き付いていた。すえた臭いが鼻腔をついて、眉間のシワが深くなる。
『……取れぬ』
精神に直接語りかけるのは、式神少女である。表情など皆無な言葉に彼は『何がだ』と先を促す。
この式神は、少々クセがある。もう少し分かりやすく話せと言って聞かせているが、今のところ改善はない。
『主、来やれ』
「なっ、うおぉぉっ!?」
その瞬間、意志とは関係なく身体が引っ張られた。姿無き怪力男に投げ飛ばされるような格好で、彼もまた暗く冷たい水中へ。
「っぶぁ! ごぼっ」
『主』
『なにしやがる! お前は常々から――』
『主……遊んでおる場合か』
『お前ぇが、俺を川に突っ込んだだろうがっ』
『取れぬ』
『はあ?』
『取れぬ』
水面下での会話である。
式神と使役者、その意思で疎通は可能。
そして、やはり従順とは言えぬ態度。柚は自らのおかっぱ頭を、ゆるりと振った。
『長き髪じゃ、女の情念故』
見れば、柚の色無き手には女の襟首。そしてその細くか弱き首を、締め上げんと巻き付くのは黒髪の束。
『くそ、厄介な』
貞次は独りごちる。
――人の念は、多くが邪念として鬼に取り込まれやすい。深ければ深いほど。愛であれど憎悪であれど。
時に人に巣喰い、胎を舐め散らしていくのだ。
特に、女の深き情念。
これは太古から、呪術に用いられるほど深い。男を喰らい、その魂から子を宿すほどの。
『男はどうだ!?』
男女は、その手首を互いに繋いでいた。
まるで咎人の戒め。心中、という地獄旅路への慰みであろうか。
『切れるが、死ぬ』
『どういう事だ』
『分からぬか、阿呆』
『あ、阿呆とは何だ!』
無表情だが、その表情は心做しか呆れたようである。
『女の情念ぞ。引き離せば、死ぬ』
『分からぬ奴だな。仕様あるまい、一緒に引き上げろ』
『生気が持たぬ』
『くそっ』
ごぼり。口から泡が漏れ昇る。
式神と違い、彼は人間。呼気が切れれば、あの世逝きだ。
貞次は一つ悪態吐くと、口の中で『術』を唱える。己の霊力を生気に変え、呼気とするのである。
『柚、女の髪を切れ。出来るだけ短く!』
『……あい』
刹那。
黒い藻屑の如き揺らめきが、大量に散っていく。
ぶつり、ぶつりと切り放たれた女の黒髪であった。
『今度はこっちか』
――貞次は覚悟を決める。
一度は唇を噛むと、紙のように白い男の手を取った。水の中であるにも関わらず、まるで氷のようなその血温。伸びすぎた爪が、小さく彼の指を傷付けた。
(あぁくそっ)
三度目の悪態と共に、その思いの外華奢な首を引き寄せる。閉じた瞳。瞼の裏の血管すら、透けるようだ。
若い男。
ひょろりとした体躯に、女のようにも見えなくもない。
『主』
『うるさい、柚』
早くしろ。と言いたげな式神少女をあしらい、彼は再び真言(呪)を脳裏に浮かべる。
そして、色を失った唇へ。自らのそれを勢いよく重ね合わせた――。
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