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弐ノ刻、好色と軽妙
帝都の端に佇む古寺にて。一際大きなくしゃみが、往来まで響く。
「えぇい、畜生――」
ずず、と鼻をすすり貞次は悪態つく。
昨夜は散々であった。霊力の殆どを尽くし、入水自殺を図った彼らに注いだ。
しかもようやく川から二人を上げれてみば、まだ絡み付き蟲の如く蠢く黒髪が彼らを疲弊させた。
(情念って奴は、やたら頑丈でいけねぇ)
黒く濁った水。揺蕩う髪。
切っても尚ぬるりと伸ばした、剥き出しの本性。あれは確かに、女の情念であった。
何を訴えているのか、終ぞ知ることは無かったが。それでも女から男へ、絡みついて離れぬ想いの強さは執着の他何者でもない。
(あの優男、余程好かれていたか。それとも)
貞次はふと、昨晩の白い顔を思い出す。
――女のような、容姿であった。
通った鼻梁も形の良い薄い唇も、全てがまるで人形めいて。
長い睫毛の縁った目は、瞼を開ければ涼しげに映るだろう。
岸根の片恋相手の。あのカフェー女給より余程、と思考を巡らせていたその時であった。
「兄さん、兄さんってば」
縁側と部屋を隔てる、障子から女の声がする。
「千代」
貞次が名を呼ぶ。すると、カラリと開いた障子の向こうに一人の少女。
歳の頃は十四。おさげの頭を小さく傾げ、ほんの少しばかし顰めっ面で貞次を見ていた。
寺生 千代、貞次のただ一人の妹である。
彼ら二人きりの兄妹、あと古寺の住職である父と共に暮らしている。しかし父は放浪癖があり、始終家を空けている始末。
幸いどこから工面するのか。生活費は数ヶ月に一度、代理人と名乗る者から渡されていた。
こんな生活が、今年で五年目となる。
「嫌になるほど、呼んだのに」
「すまん」
「兄さんは私の話なんぞ、聞いて下さらないのだわ」
「だから、すまんと言っているだろうが」
「あらいやだ。居直りですか」
愛らしい頬を、ぷぅと膨らせて千代は軽く貞次を睨んで見せた。
まったく妹というのは、年頃となると扱いが難しいらしい。彼は頭を掻きながら、首を捻る。
「俺を困らせるなよ。千代」
「ふふっ、戯言です。それより兄さん、昨晩はえらく遅いお戻りだったのねぇ」
千代が、何かを探るような目をする。
先に視線を逸らしたのは彼の方だ。罰が悪そうに、部屋の壁の染みなんぞ数えている。
「お前は、先に眠っていただろう?」
「眠って居ましたとも。でも足音で起きてしまったわ」
「あぁ、悪かった」
「良いのですよ。ええ、良いのです。ただ」
「ただ?」
「夜中に、水浴びはするもんじゃありませんわ。着衣で」
「……」
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