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「もう行きな。寒みぃから」
「うん。それじゃ……」
日南子が名残惜しそうにしながら、マンションのエントランスのほうへと歩いて行く。そんな彼女の姿を見送っていると、ふいに日南子が振りむいた。
「来月のお休み、楽しみにしてますね」
そう言ってこちらに向かって大きく手を振る。
「ははっ。分かったから早く行けっての。凍えんぞ」
「巽さんも楽しみにしててくださいね?」
「してるよ、すでに」
「どこ行くか一緒に考えてね」
「はいはい。考えるよ」
答えたその声が聞こえたのか聞こえなかったのか。日南子が最後に嬉しそうに笑って、エントランスのほうへ掛けて言った。
こんな日が来るとは思わなかった。
また再び人を愛せる日が来るとは。こうしてその背中を見送るだけで幸せな気持ちになれる日がくるとは。
だからこそ、大事にしたい。
この気持ちを。彼女自身を。
「──ははっ」
こんなに外は寒いのに、心の中は信じられないほど温かい。
彼女はいつも俺に温かなぬくもりをくれる。
「すげーかわいいけど、マジたまんねぇな……」
会えば会うほど惹かれていく。
話せば話すほど愛おしいと思う。
触れれば触れるほど、他の誰にも渡せないと独占欲が湧く。
まともなデートがしばらくお預けになる分、次の休みには彼女に何か買いに行こう。
どうせなら、所有印になるものがいい。なんて事を考えながら来た道をゆっくりと引き返した。
* * *
近所の庭先に白い梅の花が咲き始めた三月始め。
「日南子さんとお付き合いさせて頂いてます。黒川 巽と申します」
この日、巽は普段より少しだけ小奇麗な格好で日南子の実家である青野家のリビングにいた。
「あらあらあら。そんな堅苦しい挨拶はやめましょう? ね?」
「そうそう。顔上げて、黒川さん」
そう言って笑ったのは、日南子に良く似た彼女の母親と、人のよさそうな笑顔が印象的な彼女の父親だった。
日南子と約束していた旅行の前に、どうしても彼女の両親に会っておきたいと、ほぼ無理矢理日南子に頼み込んで実家に連れて来て貰った。
しかも休みが合わなかったため、彼女の公休日に合わせ、“くろかわ”の昼営業だけを休業し、まさに小一時間ほどのいわばゲリラ訪問に近かった。
慌ただしい訪問とはいえ、事前に彼女のご両親にも了承を得ての事だったのだが、嫌な顔ひとつせずむしろ歓迎してくれた彼女の両親は少し話しただけで、その人柄が垣間見えた。
二人ともとても明るく朗らかで、日南子がこの二人の娘であるという事実と、大事に育てられて来たのであろうということが一目見て分かった。
「……緊張した」
帰りの車の中、助手席に座る日南子が小さく溜息をついた。
「ははっ、何で青ちゃんが緊張すんだよ?」
「だって。初めてだもん。親に付き合ってる人紹介するなんて……」
正直、心配事はいくつかあった。
いくら娘である日南子が選んだ相手とはいえ、その娘とひとまわり近く歳が離れている男を恋人として認めてくれるだろうか。安定した大きな企業に勤めているわけでもない、こんな四十路男を娘の相手として認めてくれるだろうか。
結果、年が離れている事も“くろかわ”のことも信じられないほど好意的に受け取って貰えた。
「青ちゃんのご両親すげぇな」
「──え?」
「自分が親だったら……自分の娘が俺みたいな男連れて来たら嫌な顔しない自信がねぇよ」
「どうして?」
「若い娘にこんなオッサンだぞ? 一発でアウトだろ?」
「……じゃあ。もし、反対されたら私の事諦めたんですか? また身を引くの? 気持ちに応えられないいって言った時みたいに」
日南子が珍しく鋭い視線をこちらに向けた。真っ直ぐで強い視線。
彼女の想いから目を逸らさないと決めた。もちろん自分自身の想いからも。
「──いや。諦めねぇよ。認めて貰うまでねばるつもりだったんだけど、ご両親のアッサリ加減に拍子抜けっつーか、安心したっつーか」
二度と諦めたくはない。
人を愛する気持ちを、大事にしたいという思いを。
「そもそも……巽さん自分の事オジサン扱いし過ぎです。お店の事だって──巽さんの大事にしてるものでしょう? ご両親から受け継いだお店大事に守ってるって、すごくかっこいい事なのに」
日南子が少し照れながら微笑んだ。
不思議だと思う。彼女がいいと言ってくれるなら、それでいいのだという気がしてくる。
どうして彼女の言葉は、こんなにも俺の耳に心地よく届くのだろう。
実際、反対されなかったというのは巽にとっても大きな安心材料。
日南子の心配しているようなことはもちろん考えていたわけではないが、もし反対を受ければそれなりに日南子の心を暗くする材料にはなっただろうし、そういう心配事や障害はできるだけ少ないほうがこちらとしてもありがたい。
強引に彼女の両親との約束を取り付けたのは、その辺を付き合い始めの今の段階ではっきりさせておきたかったから。
巽は巽なりに日南子とのことを考えている。この歳で、年頃の女性と付き合うということは、当然それなりの覚悟を持っているという事も含め、真剣に交際している事実を理解してほしかった。
そういうことをすべて後回しにして、揚句愛した人を失った。
ああしておけばよかった、こうしておけばよかったという後悔をもう二度としないために。
すっかり日が傾き、辺りの景色がオレンジ色に染まる。目の前の西の空の低い位置にある太陽が眩しい。夕方ということもあり、道もさっきまでとは違い車の量が増え当然その速度も落ちて来る。
「……少し混んでますね。お店の時間、間に合うかな」
日南子が時計を気にしている。このまま店に戻って、夜の営業だ。それに間に合うかを気にしているのだろう。一応五時からの営業だが、そこは個人事業。巽の匙加減で時間などどうとでもなる。
「いいよ。少し遅れるくらい。開店ぴったりに来るお客なんてそうそういるもんじゃねぇし」
「そうかもしれないけど……」
「俺が無理言って強行したんだから、青ちゃんが気にすんなっての。つか、飯どうする?このまま店で食ってくか?」
そう訊ねると日南子が首を振った。
「今日はちゃんと家で食べます。昨日もお店で食べてるし、冷蔵庫に瀕死の食材があるから今日は使っちゃわないと」
「ははっ。瀕死、って」
「だって。ダメにしちゃったらもったいないじゃない?」
「確かにな」
日南子が店に顔を出す頻度は以前とさほど変わらない。彼女は、基本自炊派だ。
こういう食材だったり、物だったりを大事にするところもまた好ましい。
「それじゃ、巽さん。また夜連絡しますね」
「ああ」
彼女のマンションのに車を停めると、日南子が車から降りて巽に小さく手を振った。
どちらがどう連絡するとかそういうルールがあるわけではないが、気づけば毎晩連絡を取り合っている。日南子が店の営業時間過ぎにLINEをくれ、巽がそれにメッセージを返すか電話を掛けるかというのがお決まりのパターン。
彼女がマンションに向かい掛けたかと思ったら、ふと何かを思い出したようにこちらに戻ってきた。
「どした? 忘れ物か?」
そう訊ねると日南子が首を振った。
「今日は、ありがとう。……その、親に会ってくれて」
「──ああ。会わせてくれっつったの、俺だしな」
「嬉しかった。ちゃんと、恋人だって言ってくれて」
「……うん。当たり前だろ」
「それだけ、なんだけど」
「うん」
「ごめん。お店あるのに引きとめて」
ほんのりピンク色に染まる彼女の頬。はにかんだ笑顔に、こっちが照れくさくなる。わざわざ言葉にするくらい嬉しかったのだろうか。たったこれくらいのことで、そんな顔をさせられるのなら、何度だって言ってやるのにと思う。
「ああ。それじゃな」
そんな思考への照れくささから、何気なくズボンのポケットに手を入れた瞬間、中に包みがあることに気づいて巽は慌てて停車した車から降りた。
「──青、………じゃねぇや、」
呼びかけて、ポケットから取り出したものをギュッと握りしめてから意を決して
「──日南子!」
言い直した。
その瞬間、日南子が驚いた顔をして振り返り、その場に立ち止まった。巽が日南子に追いつくと、彼女が驚いた顔のままこちらを見つめる。
「悪い。忘れてた、コレ」
「……なに?」
巽が手に握りしめた包みを渡すと、日南子がそれを不思議そうな顔で受け取った。ポケットに突っ込んだままになっていたそれは、悲しいほど皺くちゃで、巽は苦笑いをし、日南子の手の上でその皺を伸ばしながら答えた。
「渡そうと思ってたんだ。この間チョコくれたろ?」
「え?」
「くれたろ。バレンタイン。そのお返しっつーか」
「──ああ、」
日南子はそのことに納得したかのように微笑んだ。つい先週のことだ。
「お返し……って、巽さんホワイトデーまだ随分先なのに」
日南子が包みを見つめながら、クスと笑った。
「一カ月も待ってたら忘れちまうだろ」
「もう。そこは覚えおいてくださいよぉ」
「少しくらい早くても問題ねーだろ?」
「──ないですけど」
日南子が少し唇を尖らせながら巽を見た。本人は無自覚なようだが、巽はこの彼女の仕草が気に入っている。あまり不満など口に出さない日南子が唯一、可愛らしく拗ねるときのもの。
「開けてみてもいい?」
「ああ。たいしたもんじゃねぇけど」
日南子が包みをそっと開け、中身を取り出す。包みの中から日南子が透明の袋を取り出し、それを手のひらの上にのせた。あまり気張っていると思われたくなくて、あえてその包装を簡素にして貰った。
「わぁ……! 可愛い。ネックレス?」
「ああ」
「巽さんが選んでくれたの?」
「当たり前だろ。他に誰が選ぶんだっつうの」
星型のモチーフに、彼女の誕生石であるムーンストーンの付いたシンプルなネックレス。華奢なデザインが日南子にピッタリだと思ったのだ。
本当は別のものを贈ろうと思った。もっと明確な意志の感じられる所有の証。けれどやはりそれは人生一番の決め時までとっておきたい。
「つけてみていい?」
日南子が嬉しそうに訊ねた。
「ああ。貸しな」
巽は日南子からネックレスを受け取り、その金具を外す。車から降りたばかりでコートや荷物を手にしたままの日南子にこちらに背中を見せるよう促し、彼女がそっと髪を手で束ねた後ろから金具を留めた。一瞬チラと見えた細い首筋と項にほんの一瞬胸がざわめく。
「できた」
「似合う?」
日南子がクルリと身体の向きを変え、頬を少し染めながら真っ直ぐ巽を見つめた。
「似合う似合う」
「ホント?」
「本当」
「ありがとう。肌身離さずつけて大事にする」
まるで旨い飯でも食ってるときみたいな幸せそうな顔。
「そりゃどうも。一応アレだからな? 俺のだぞ、っつう」
そんな顔見せるから思わず口が滑った。何が“俺の”だ。いい歳して独占欲むき出しとか、自分でも呆れてしまう。
けれど、自分にこんなことを言わせるようになったのは紛れもなく彼女であって。これほどまでに湧き上がる独占欲が自分の中に存在していたことに気づかされたのが、人生初めての事で手に負えない。
「嬉しい」
俺のだぞ、発言にますます気を良くした日南子の笑顔が輝く。
知らなかった。自分の何気ない言葉ひとつで、誰かを幸せにしてやれるなどと。
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