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グルキュルル……と腸が動くのと、どこからともなく漂う出汁の香りに誘われるように目を開けた。
ぼんやりとした日南子の視界はだんだんと鮮明になっていき、目の前に広がるのは古い木製の天井と昔ながらの和室によく見られる吊り照明。
ハッとして飛び起きるとそこは見知らぬ部屋。一瞬記憶がぐちゃぐちゃに混乱する。
「お。起きた?」
少し開けられた襖の隙間から見知った男が顔を出した。──が、起きぬけの頭で状況が把握できていない日南子の呆然とした顔を見て、その男が腰の引けたように手のひらをこちらに向け“待った”とジャスチャーで訴えた。
「いろいろビックリしてんの分かるけど、大声上げんのは勘弁してな?」
巽が日南子の様子を窺いつつ言った。
「……大丈夫です。ていうか、私──」
もしかしたら、彼にとんでもない迷惑を掛けたのかもしれない。そう考えたら血の気が引く思いがした。
「昨日な。店で飯食った後、赤松と三人で飲んだの覚えてる?」
「……はい」
仕事のあとの一杯最高! 赤松と乾杯して、巽とも乾杯して。忙しかった仕事の後のほど良い倦怠感も手伝って気分良く飲んで──、その辺までは覚えている。
「青ちゃん、けっこうハイペースで飲んでて。俺ももっとちゃんとセーブ掛けりゃ良かったんだけど、平気な顔してるから相当強いのかと思ったら許容量越えたのかガクンと寝落ちてそのまんま。何回も起こしたんだけど、起きねーし。んで、まぁ緊急処置的な」
そこまで言った巽が遠慮がちにこちらにやって来て日南子の目の前に正座した。
「誓って、何にもしてないからな。指一本……あ、いや。下から運ぶのに抱え上げはしたけど、それ以外は一ミリたりとも触れてねーし」
「いやいやっ……あのっ、それは全然!!」
申し訳なさそうに小さくなる巽の姿に日南子はどう答えるべきか分からずおろおろするばかり。
「ご迷惑おかけしたの私の方なんで……!! こちらこそスミマセンでしたっ!!」
日南子は慌てて姿勢を正すと、それこそ畳に額をつけるように頭を下げた。
「……や。いいって!」
いくら常連で気心知れている店だとはいえ、店で酔い潰れて記憶を手放したなど大人としてどうなのだというものだ。
深々と下げた頭を上げると、巽と目が合った。気恥ずかしさが勝って、ふいに視線を逸らし遠慮がちに部屋の中を見渡す。
古い昔ながらの日本家屋。壁にあつらえられた本棚には、おびただしいほどの本が収められている。これらは巽の物なのだろうか。こんな状況でなければ、この本棚の中身をじっくり見てみたい気さえする。
「ここ……巽さんのお部屋ですか?」
「ああ。うん。二階は親父らが住んでた頃のまんまほったらかしで」
“くろかわ”は一階が店舗、二階が居住スペースとなっているのを以前巽の両親から聞いたことがあったのを思い出した。以前、会社勤めをしていた頃は一人暮らしをしていたようだが、それ以前に巽が生活していた場所。そして今、生活している場所。そんなプライベートな空間に図らずも足を踏み入れてしまったことに少し罪悪感を感じる。
「すみません。私……巽さんのベッド占領しちゃって」
「気にすんなって。奥に親父たち居た部屋あるから俺昨日はそっち寝たし」
「……すみません」
もう一度頭を下げると、巽が腕を伸ばして日南子の頭に触れた。よく見ると巽自身も起きて間もないようで普段整髪料で上げられた前髪が降りているのが新鮮だ。
「もう謝んのなしな。飯できてるから降りて来な」
そう言って笑った巽が部屋を出て軽快な足取りで階段を降りて行った。
巽が階下に降りて行った後、モゾと布団から抜けだした。ほんのりと漂うどこか落ち着く香りは巽のものだろうか。
部屋の隅には日南子の荷物が置いてあり、カーディガンはきちんとハンガーに掛けられている。
指一本触れてないというのはまさに彼の言葉通りで、着ていた服もスカートもストッキングに至るまで昨夜日南子が店に来た時のままだった。
「そりゃ、そうだよね……」
いくら男の人だとは言え、特に興味もない女……しかも意識もない女に手を出したりするはずもない。ましてあの真面目そうな巽なら尚の事。
そもそも日南子など女として見られているかさえ疑問だ。
「こぉら。早く来ねーと飯冷めちゃうぞー」
階下から巽の声が響いた。
「はぁい!」
弾かれるように返事をしてバッグの中から化粧ポーチを取りだしてコンパクトの鏡で一瞬顔をチェックすると、軽くパフをはたいてコンパクトを閉じた。
二十代半ば。相手がこちらを意識してなくとも、さすがに化粧よれした酷い顔を異性に見られて心折れない年頃ではない。
ゆっくりとした足取りで階下に降りていくと、店のテーブル席にささやかな朝食が並んでいた。
「……うわぁ。美味しそ」
思わず声が漏れた。ご飯に味噌汁。厚焼き卵に焼き魚とお浸し。まるでちょっとした旅館の朝食のようだ。
「どーぞ」
巽が日南子を席へと促し、日南子は逆らうことなく促された席に座った。
「いただきます」
巽が食卓に手を合わせ、日南子もそれにつられるように手を合わせた。朝から誰かの手料理とかなんという贅沢。普段の日南子ならトーストにコーヒー。もしくはシリアルで済ませてしまうこともある。料理は嫌いではないが、一人ではつい手間の掛からないいものを選んでしまう。
「いただきます」
こんな朝食を毎日食べられたらどんなに幸せだろう。
「美味しい」
一番に味噌汁に手を付けそう言うと、巽が満足そうに笑った。なんていうか、じわりと身体に滲みる。
「だろー?」
優しい顔。普段からこんな顔をする人だっただろうか。こんな朝早くから思いがけない相手との食卓に、なぜだか胸が騒ぐ。
言葉にするのは難しいけれど、落ち着かなくてくすぐったい、みたいな。
「普段からこんな豪華な朝食食べてるんですか?」
「──こんな、って青ちゃんどんな朝飯食ってんの?」
「私なんて、ご飯と前の晩のお味噌汁と……納豆ついたら超豪華! って感じですよ?」
「俺も似たようなもん。今朝は青ちゃんに食わせる手前、ちょっと盛っただけ」
「……盛ったんだ」
ふふ、と笑うと巽も日南子に笑顔を返した。
誰かと一緒に食べる朝食など久しぶりだ。もちろん、今までのその相手は女友達に限られている。相手が異性なのはたぶん人生史上初めての事だ。
誰かと恋をして──共にに迎える朝はこんななんだろうか。男性とまともに付き合った経験のない日南子にとってそれはまだ未知の体験。
「あ……何かお礼させてください!」
思い出したように日南子は言った。
飲み潰れて他人に迷惑を掛けておいて、このままというわけにはいかない。
「いらねぇよ、そんなん。たいしたことしてねーし」
「でも……凄く迷惑掛けたし」
「なら。懲りずに今まで通り顔出してな。常連逃すのはイタイ」
常連といっても日南子は顔を出す頻度が高いだけで、ほとんどお金を落とさない客なのだが。
「そんなんでいいんですか?」
「そんなんが、嬉しいんだよ。飯食い終わったらコーヒー淹れてやるな」
「あ。じゃあ、私、洗い物します。……それくらいさせてもらってもいいですよね?」
日南子が訊ねると、巽が笑いながら頷いた。
*
食事を終えて洗い物をしている日南子の横で巽がコーヒーを淹れている。豆を蒸らしつつ少しずつお湯を注ぐと、香ばしい香りが店の中に広がる。
こうして並んで作業をしていると、まるで漫画やドラマで見た恋人同士みたいだ。そんな想像がなんだか照れくさくて食器を洗う手に知らず知らず力が入る。
窓ガラス越しに外を見ると店の前の通りは車や人通りが増え随分賑やかになってきた。ちょうど通勤時間にあたり、日南子が普段通勤で乗っているバスももうあと十分ほどで到着する時間。
「たまに見掛けるよ、この時間」
「え? そうなんですか?」
「店ある日は毎日仕込みしてっから」
「……あ、」
そうなんですね、と続けようとした言葉をムズと動いた鼻が遮った。
「ふぁっ、……ックシュン!!」
突然のくしゃみで手にした泡だらけのスポンジからあちこちに泡が飛び散った。
しかも、くしゃみが豪快とか女子としてかわいくない。
「……飛んだ」
慌ててシンクやカウンターに飛び散った泡を流していると、横に立っていた巽がブッと笑いながらポットを置いて日南子の方へ手を伸ばした。
「コントみたいだな? ここまで飛んでるっつうの」
巽が笑いながら日南子の頬についた泡を指で拭うと、それを着ていたシャツの裾で軽く拭い何事もなかったかのように再びコーヒーメーカーにお湯を注ぐ。その一連の動作がごく自然で日南子が口を挟む隙もなかった。
「砂糖セルフな」
「……は、はいっ」
返事をしたなぜか声が裏返った。硬直していた身体から力が抜ける。
バカみたいだ。たかが頬の泡を拭われたくらいで変に意識して身体をこわばらせるなんて。これだから男性に免疫のない恋愛経験値底辺女は。……我ながらホント面倒くさい。
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