〈1〉青野日南子の場合①

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   *  *  * 「は?! 朝帰り?なにそれ初耳!!」 「……だっていま初めて言ったもん」  平日の昼下がり。駅ビルの中に新しくできたイタリアンのお店で、中学からの付き合いの月岡 (つきおか みどり)と食後のデザートに手を付けながらの会話。  先日“くろかわ”で巽の世話になったいきさつを親友の緑に話していた。酔って記憶を失くした事実をうっかり口を滑らせた結果なのだが、そんな面白そうな話題を放置する緑ではない。 「“くろかわ”って日南子の家の近くのアレでしょ? 定食屋の」 「うん」 「つか、なんなの? 人生初の朝帰りがそこまで親しくない男──、しかも近所の定食屋のオッサンの家だなんて」 「うう……客観的な言葉で聞くと酷い。反省してんの、これでも」  小さく身震いをしながら紅茶のカップに手をつけた。酷いのは相手が、という意味ではもちろんない。二十五にもなって人生初の異性宅からの朝帰りとか言っているそれこそがイタイ。しかも自ら望んでのことではなく、失態の末の事故。  もっと言えば巽にとっては迷惑以外の何物でもないという事実。 「まぁ。ご無事でなにより。巽さんだっけ? いい人でよかったじゃん」 「うん」 「私的には、一夜の過ち的な展開も案外おいしかったんじゃないかなーって思うけどね」 「もう何言ってんの! ないないそんなの」   面白がる緑の言葉を思いきり否定した。一夜のナントカとか、想像するだけで勝手に顔が赤くなる。そんな日南子を眺め、緑が呆れたように言った。 「あのねー、日南子。いつまでお子様してんの? そんなんで結婚したいとか、よく言うよ」 「なんでよー」 「結婚のまえに恋をしなさい! 恋愛って綺麗ごとばっかじゃないんだよ? 性格とか趣味が合うとかその基準は人それぞれだけど、身体の相性とかそういうのもあなどれないんだから」  緑のこういうハッキリとした物言いが好きだ。思ったことそのまま口に出る裏表のない性格が、その正反対の性格の日南子といいバランスを保っている。 「……う、」  これ言われると耳が痛い。日南子は恋愛ど素人。過去に一度付き合った経験はあるが、高校生だった上に期間も僅かないわゆるプラトニックな関係止まりのまま終息。以降彼氏はできず、すでに二十代半ばを迎えた。緑の言う“あなどれない”大人な感覚を日南子はいまだ知らない。  日南子自身、べつに好き好んでの現状ではない。気づいたらこうなっていただけの事だ。 「現実味のある恋愛してから結婚考えたら? ──まぁ、婚活自体は出会いの場を作るって意味で合理的だとは思うけど」  緑がコーヒーをカップを手に日南子を見つめた。 「けど、珍しいね」 「え?」 「日南子が自分からそういう話するなんて。昔つきあってた男の子の話も自分からして来ることなかったよね? ──しかも。朝帰りなんて言ったら私がもの凄い勢いで突っ込むこと想像できたでしょ?」  確かに今までならそうだった。緑とは中学からの付き合いだが、高校の時に付き合った男の子の話も大学の時付き合った男の子の話も緑からしつこく追及されて話すのがほとんどで、自分からそれに触れることはなかった。 「……確かに」 「ね、ねっ! ほんとは何かあったんじゃないの?」  緑がその声こそ控えめだが興味深々といったように身体を前に乗り出した。 「何もないよ」  何も、ない。特別な事は何も。 「ただ──」 「ただ?」 「朝ごはん、凄く美味しかったんだよね」 「何それ。当たり前じゃん、定食屋の朝ごはんでしょ? そりゃ美味しいに決まってんじゃん」  緑が怪訝な表情で日南子を見つめた。 「お料理そのものが美味しいのは知ってるの。緑だって知ってるでしょ?」 「まぁね」  週に二回は顔を出すお気に入りの店だ。緑と食事に出掛けたことだってある。 「巽さんと食卓囲んでたとき──。なんていうかね、いいなって思ったんだよね。家族以外の誰かと生活するってこんな感じなのかな──って凄くぼんやりなんだけどイメージできたっていうか」  日南子の言葉に、緑がクスと小さく笑った。 「何?」 「いや。……それかもよ? 日南子」 「何が?」  なぜだかとても楽しそうに笑う緑に、今度は日南子が怪訝な表情を返す番だった。      *  *  * 「お電話ありがとうございます。オリオン事務機美原店、青野です。──はい、藤倉でございますね? ……少々お待ち下さいませ」  日南子は受けた電話を保留し、店舗から事務所への内線を鳴らした。 「お疲れ様です、青野です。藤倉さんに美原小学校さんからお電話です。お願いします」  電話を取り次いで受話機を置いた。日南子の勤めるオリオン事務機は、本社である美原店のほか近隣市町に五店舗ほどの支店を持つ文房具店。昼時は事務所の社員が休憩で出払ってしまうため、店舗のスタッフが事務所あての外線の対応もすることになっている。 「青野。店長戻ったからうちらも休憩入ろ」 「あ。はい」  先輩社員の白井雪美(しらいゆきみ)に肩を叩かれ、仕事の手を止めて彼女のあとに続いた。店舗のシフトは、早番・遅番・通し番の三シフト制。午後一時を過ぎた今は遅番の休憩時間にあたる。 「あー、お腹すいたー! 青野、外行く?」  雪美が訊ねた。彼女はこの店の副店長。入社当時、日南子の教育係でもあったことから未だに何かとお世話になっている尊敬すべき先輩。  プライベートでも仲が良く、ランチやショッピングに出掛けたりすることもある。 「私、今日はお弁当なんですよー」 「そっか。じゃあ、アタシはコンビニでも行って来るかなー。青野、ついでに何かいる?」 「あ。じゃあ、お茶お願いしていいですか? ジャスミンの」 「いいよー」  事務所の二階にある休憩室兼更衣室に上がると、ロッカーから財布だけを取り出した雪美が日南子にヒラヒラと手を振りながら休憩室を出て行った。  一人休憩室に残った日南子は、つけっ放しのテレビを眺めながら弁当を開けた。早番の休憩は事務所の社員たちの休憩時間と重なるため休憩室も賑やかだが、遅番の休憩時間はガランとしている。 「いただきます」  両手を合わせてから、箸を手にした。テレビを眺めながら時折手が止まるのは、この間緑に言われた言葉を少し意識しているから。 『──それかもよ? 日南子』  それかもって何よ。聞いてもニヤニヤと笑うばかりで何を意味するのかさえ緑は教えてくれない。  恋愛偏差値が高ければ、緑の言わんとする意味も理解出来たりするのだろうか。そんなことを考えながら厚焼き卵を口の中に放り込んだ。  そうこうしているうちにコンビニにお昼を買いに出ていた雪美が戻ってきた。 「青野、お茶これでよかった?」  日南子は慌てて口の中のものを飲み込み、片手で口を押さえて立ち上がった。それから用意しておいた財布から小銭を取り出す。 「ありがとうございます! 百五十円でいいですかー? ちょうどあります」 「あはは。いいのにー! これくらい奢るよ」 「いやいや、会計はキッチリとですよ」  小銭を手渡すと雪美が笑いながら日南子の隣に座った。それからビニール袋の中から買ってきたサンドイッチを取り出しその包みを開ける。  思い出したように制服のポケットからスマホを取り出して、日南子に身体を寄せた。 「そーいえばさ。今度プリンスホテルで婚活パーティーあるんだけど、青野も行くよね?」 「え? いつですか?」 「再来週の金曜。夜七時から」  雪美がスマホの画面を日南子に見せながら訊ねた。 「行きます、行きます。……って私早番だ! 間に合うかな」 「じゃあ仕事終わってタクシー捕まえよう!」 「了解です」  雪美とは婚活仲間でもある。日南子より三つ年上の二十八歳。数ヶ月前に五年ほど付き合ってたヒモ同然の彼氏と別れ、起死回生の婚活中。周りの友人たちの結婚報告にも焦りを感じだしたのか、もはや日南子より気合いが入っている。 「次こそ絶対イイ男捕まえてやるんだからー!」  はむっと気合いの入った様子で雪美がサンドウィッチを頬張った。日南子はそんな雪美を見て微笑む。 「今度は年齢制限あるから! この間みたいなことにはならないはず」  雪美とそういうイベントに参加するのは二度目。前回も隣町のホテルで開かれたものだったが、年齢制限というものがなく、参加者の年齢層……特に男性側が思ったより高かった。自分たちの父親とそれほど変わらない世代の男性たちに、さすがの日南子たちもごめんなさい……という具合に退散するしかなかったという苦い記憶。 「雪美さんならすぐいい人見つかりますよ」  美人で気さくで、おまけに面倒見も抜群。こんな素敵な女性を放っておく男なんていないと日南子は思っている。 「……そうかなーぁ」 「そうですよ!」 「アタシ、ダメ男呼びよせる体質なのよぉー」 「元彼さんは、たまたまです!」  そう気合いを込めて返事をすると、雪美が笑いながら日南子を見た。 「青野はどういうのがいいのよ?」 「私は──、普通でいいんです。イケメンじゃなくちゃダメだとか、高収入じゃなければ嫌だとか、そんな贅沢は言いませんし興味もないです。楽しいことがあったら一緒に笑って、おいしいもの食べたら一緒に『美味しいね』って言い合って……そんな普通の感性が合う人に巡りあえたらな、って」  弁当箱の蓋を閉じながら理想の結婚を思ったままに答えると雪美が顔を歪めた。 「……それあまりにも素朴すぎない?!」 「いいんですよ! 結婚って、その普通過ぎることの積み重ねじゃないですか!」 「つか、夢がナイ。なさ過ぎ」 「えー? 何がですかー? これでも夢いっぱいなんですけど」 「どこがよ」  日南子のこの理想は、なかなか共感されない。以前緑にも「発想が地味すぎる!!」などとバッサリ言われたことがある。  何気ない毎日が幸せって。それこそが最高の幸せな気がするのは私だけ? 仲の良い両親を見ている限りそれが一番の幸せのような。 「とりあえず欲がないのは分かった。それでも普通あんじゃん、好みって」 「じゃあ、聞きますけど。雪美さんはどんな人が好きなんですか?」 「アタシ? アタシは──」  そう言いながら雪美が天井を見上げる。考え事をする時、つい上を見てしまうのは何故だろう? などと余計な事を考えながら雪美の言葉を待つ。 「とりあえず私より背が高くて。できれば歳が近くて。身体はどっちかっていうとマッチョ……いや、細マッチョ? それから仕事もできる男のがいいわよねー」 「じゃあ。うちの営業の藤倉さんとか!」  思いついた身近な名前を挙げてみる。職場の若手の中でも堅実でやり手と評判の男性社員だ。 「……ダメダメ。事務の花井さんが言ってたんだけど、好きな人いるみたい」 「じゃあ……氷川さん!」  これまたうちの営業の中堅でこちらもやり手の男性社員。 「やだ青野。氷川さん彼女持ちだよ? そもそも社内でってのがパス!」 「……どうしてですか?」 「万が一別れたときいろいろやりにくいじゃん」  確かに。社内恋愛の経験のない日南子でも、上手くいっているときは最高だが別れたときに気まずいとか、その程度の想像はつく。 「でも。オフィスラブってちょっと憧れません? 上司と秘密の恋とか」 「青野ぉ。それ漫画読み過ぎだからー」 「……自由じゃないですか。妄想くらい」 「そんな妄想できるくせに、結婚は現実的なのね」 「結婚は現実ですから!」 「だから。なんでそんな悟ってんのよ」  恋愛に夢がないわけじゃない。そりゃあ、劇的な恋愛ができたらって思うことだってある。  でも恋愛の先に結婚があって、結婚の先に生活があるのなら、はじめから“理想の生活”求めたってなんらおかしいことはないはずだ。
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