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いつからこの世界が退屈なものだと気付いたのだろう。
大人になれば色々なことを忘れ、色々なことを吸収しづらくなっていく。子どもは1日が長く感じ、大人は短く感じてしまうのはそのためだ。刺激がなく退屈になっていく、もしかしたら人生の分岐点は20歳半ばに訪れるのかもしれない。後半の道のりが異様に長いのだ。
門倉咲恵はつい先日26歳を迎え、ようやく折り返し地点のスタートラインに立ったのだと感じていた。
ぱっちりとした目を膨らんだ涙袋が支え、そこから伸びる鼻筋はすらっとしていた。下唇がぷっくりと垂れて、その先の顎は少し尖っている。門倉はそれがコンプレックスだったが、今となってはどうでもよかった。誰か特定の異性にアピールをするわけでもないのだ。10日後に迫るクリスマスですら、今の所予定は白紙である。
リーグル株式会社は日本でも大手と呼ばれるIT企業、経理の職に就いた門倉はただ淡々と業務をこなす日々だった。残業も厳しくなく、18時半には帰宅する。土日も休みで、所謂ブラック企業と呼ばれる会社ではないのだろう。だからこそそんな平和な毎日が退屈だったのだ。
その日も門倉は仕事を終えて駅に向かっていた。東京駅に向かう人の流れは岩の裏に蔓延る小さな蟻の大群のようだった。一匹一匹がどこへ向かうのか分からない。蟻は餌を発見すると、フェロモンを出して一度巣に戻るのだという。自分は今フェロモンを出しているのだろうか。ブランド品の香水を纏い、小洒落た衣服に身を包み、毛先を振って甘い匂いのシャンプーを香らせる。果たして自分を飾ることに意味があるのだろうか。男という餌を見つけていないから、フェロモンの出しようがないのかもしれない。
細い足に張り付く白いストライプパンツには薄いグレーの線が等間隔で並んでいる。ピンクとオレンジが混じったVネックのセーターの裾には小さな真珠のネックレスがかかっていて、何度も薄めたようなベージュのコートは膝上まで伸びていた。膨らんだ乳房の下まで伸びる黒髪の毛先は螺旋階段のように畝っている。異星人の肌のような薄い緑色の帯を纏った山手線に乗り込み、10分。脂と汗にまみれた車内から鶯谷駅に降り立った。
駅のホームを彩るラブホテルの絢爛な輝きは、まさしく眠らない街を象徴しているかのようだった。あれだけの建物の中で大勢の男女がセックスをしている、不思議な箱だ。
上野駅に近いこの土地は、かつて上京してきた出稼ぎや集団就職の人たちに向けた旅館街だったという。時代が進むにつれて風俗という、怪物の涎のような水滴が落ち、ラブホテルが並ぶ街並みに変わった。偉人が住んだ邸宅が霞むほどの色に包まれている道を歩いていくと、目的地に辿り着いた。
「お待たせ。」
ホテルエピオは南欧を思わせる外壁で、柱のように聳える電灯は橙色の光を放っていた。プライバシー保護のために遮られた壁の前に立つ男は、長袖1枚だった。
「いいよ、入ろうぜ。」
恰幅の良い佐々木雄哉は黒いブランドのセーターに、足にへばり付くジーンズを穿いていた。蓄えた顎髭は短く、焼けた肌に逆立つ短髪は光を跳ね返すほど金色に輝いているようにも見える。
佐々木とセックスフレンドになってちょうど1年になる。会社の同僚と大衆居酒屋で飲んでいるところ、彼が話しかけてきたのだった。その後はすぐに同僚たちと解散して、池袋のラブホテルに向かったのだった。
佐々木は激しいセックスを好んでいた。もちろん絶頂を迎えることもあったが、恋人の関係に発展することはない。男女の友情は成立するのかどうかという果てしない議論があるものの、セックスフレンドはその議論の折衷案にあたるのではないだろうか。恋心は芽生えず、ただ性欲だけを満たす行為。需要と供給のバランスはとても良いだろう。そんなことを考えているから彼氏ができないんだなと、門倉は心の中で呟いて、セックスフレンドの後を追った。
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