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   同じ電車で見かけるその人は、とても姿勢が良い。すらっと背が高くて、その、綺麗だ。  乗り合わせるのは五駅程。  俺は、この十五分程度の幸せに救われていた。今日も、彼女は俺の会社がある駅の手前で降りる。  その後ろ姿を見送って、よし、仕事を頑張ろうと単純にも思うのだ。  本日の目の保養を済ませ、俺も会社へ向かった。  七月の夏も真っ只中になってくると、外回りはキツい。  今日もたっぷりと汗をかき、熱中症への注意を払いながら、取引先へ頭を下げて回る。夕方、もう直帰したいなと社への言い訳を考え始めた頃、携帯が鳴った。  メールだ。  確認すると、同僚の吉井から「今日、付き合え」と言う、飲みの誘いだった。考えるのも面倒なので、「了解」と短く返信する。 (・・・あっつ、帰るとしますか)  会社に戻ると、吉井が涼しげな顔で寄って来て、「駅前の居酒屋な!」と肩を叩いて出て行った。あれこれ報告と仕事を終わらせて後を追う。  居酒屋の扉を開けると、吉井がカウンターから手を上げた。 「何だ、お前だけ?」 「まあな」  おしぼりを受け取って、取り敢えずビールを注文した。それから、色々くだらない愚痴を言い合い、  何の流れでそうなったのか覚えていないが、彼女の話になっていた。  あの十五分間の彼女。 「何だよ、声かければいいだろ?」  吉井が煙草に火を点けながら、呆れ顔で言い捨てた。 「いやあ、高校生じゃあるまいし、ナンパって訳にもなぁ…」 「まあ、確かに、社会人ともなると彼女作るのも一苦労だよなあ」  同じ職場ならともかく、同じ電車に乗り合わせただけでは何のきっかけも無い。ましてや、何時も見ています、なんて言おうものなら立派なストーカーだ。 だから良いのだ。 「なんかさ、こう癒しっての?この距離感が良いんだよ」 「なんだそれ?」と吉井が笑う。 「ほら、恋人とかになったら案外面倒なこともあるだろ?」 「まあなあ・・・」 「毎日十五分、俺はその癒しがあればいいんだ」 「単に、お前がヘタレなだけだろ?」そう言ってまた、吉井が笑った。  俺は吉井の人を小馬鹿にしたようなこの笑いが、実は嫌いじゃない。こいつの稀有な才能だと思うが、嫌な気分になった事が無いのだ。要するに、聞き上手という事なのだろう。なので、ついつい彼女の事を話してしまった。  別れ際、吉井が言った。「もう、やめとけよ」と。  何の事か解らず、ああと適当に相槌を打って俺は駅に向かった。  程良く酔っ払って帰りの電車に乗る。思わず、くるりと彼女を捜した。 (この時間に居るわけ無いよな~)  空いた車内の椅子にどっかりと座り込んで、酔っているせいだろう。彼女の姿が見たい等とバカな妄想をしてしまった。  翌日、軽い二日酔いに見舞われながらも、何時もの時間の何時もの車両に俺はしっかりと居た。彼女に会うためだ。  どうやら、よっぽど彼女の癒やしを糧にしているらしい。情けない。  他に楽しみは無いのか、俺よ。  そんな少し情けなくもあったその朝、彼女の様子がどうもおかしい。何度か後ろを気にしながら、身を捩る仕草をする。  俺は彼女に何が起きているのか、瞬間的に理解した。顔面蒼白で俯く彼女を見て、考える前に足は動いていた。俺は満員電車の中を、人を押しのけ、手を伸ばす。  彼女が吃驚するのも構わず腕を取り、引き寄せた。  そのまま、「すいません」と何度も人を掻き分けて、彼女をドア付近に誘導し、自分が前に立った。 「大丈夫ですか?」  声をかけると、吃驚して口も聞けずにいた彼女が、ゆっくりと俺を見上げる。 「あ…ありがとう、御座います」  泣きそうな声で、それだけ言うと何時もの駅で逃げるように降りて行った。  其れからというもの、痴漢に合った彼女を助けた事がきっかけで、次の日から顔を合わせる度に、話をするようになった。俺は、あんな事があったから、もうこの時間には乗らないと思ったと告げると、お礼を言いたかったからと彼女はにこやかに笑った。  見ているだけだった十五分間から、話す様になった十五分。  他愛も無い会話ばかりだけれど、この十五分間の癒やしは段々と手放せ無くなっていた。  昼休み、社員食堂で昼飯を済ませ窓際で時間を潰していると、いや、実際には少しサボっていると、だ。 「おまえさあ・・・只の目の保養にそんなに近づいてどうする」  吉井が俺に缶コーヒーを差し出しながら、そんな事を言って来た。こいつが奢るなんて珍しい。 「え?別にそれ程近づいてないよ。五駅分話すだけだ。 そっから何の進展も無いし、望んでない」  俺はヤツから頂いた缶コーヒーを開けながらおどけて見せた。 「そうか・・ならいいけど。じゃ、深入りはすんなよ?」そんな吉井の忠告を受けた次の日。  彼女は電車に乗って来なかった。何かあったのだろうか。風邪?身内の不幸?色々な考えが頭を過ぎったが、所詮俺には関係ない事と自分に言い聞かせた。  その次の日も、彼女はいなかった。これで、終わりなのだろうか・・・ いつ終わってもおかしくはない事ではあったが、俺は何だか割り切れない思いがした。  本日の仕事は見事に捗らなかった。疲れた体を引きずって、電車に乗り込む。吉井が飲みにいくか?と声をかけてきたが、気力が無かったので断った。  ・・・・・正解だ。  重たい頭を持ち上げるとそこに彼女がいた。断って正解だった。 会社帰りだろうか、手すりにつかまって前を見ている。こちらには気づかない。  知らない内に彼女に歩みより、知らない内に心臓の音が速まっていた。 「・・・あの」  声をかけようとした時、それが目に飛び込ん来た。  数日前には無かったそれは、彼女の左手薬指で輝いていた。瞬間足が竦み・・・・・色々な感情が一気に襲ってくる。 「あ、こんばんは!今帰りですか?」彼女が笑顔で寄ってきた。 「…ええ、まぁ」  俺は彼女の顔を見て言ったつもりだったが、どうも、彼女が髪をかき上げたその左手を見ていたらしい。  それに気づいた彼女が恥ずかしそうに、 「昨日、海外転勤を終えて彼が帰って来たんです。遠距離が長かったんで、もう駄目かと思ったんですけどねえ」とそれは幸せそうに微笑んだ。 「おめでとうございます・・・」  俺の情けない声が彼女の耳に届くと同時に、駅へと電車が滑り込んだ。 「ありがとう」  にこやかに手を降って彼女は電車から降りて行った。  幸せそうな彼女の後ろ姿を見送って、ホームから自分へ向けて振られる手に作り笑顔で応える。  ゆっくりと動き出した電車に、早く遠退いてくれと願った。  流れる景色を見るとも無しに目で追うと、胸の奥に重苦しい何かが広がる。 「・・何だ、そうか」  自然と胸に手を当てていた。只の目の保養だと?ほざいていたのは、何処のどいつだ。  自分の馬鹿さ加減に、思わず笑いが漏れる。 「・・まいった・・・これは・・・痛いな」  俺は傷む胸を押さえ、最寄りの駅を通り過ぎた。
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