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ドブ板通りの雇われもの。⑥
肉屋のおかみさんとご主人に手を小さく振りながら別れたロリは、自分の頭より大きな紙袋を抱えて仕事であるドブ板通りご町内の巡回を再開しようとしたとき、フラリ路地から姿を現したある人影に目が奪われた。
まだ、町や港や軍港工廠などで働く人々が仕事を終えて町中に出てくるには、いま暫し、三十分くらいの時間がある。
その人物はいかにもドブ板通りに居を構える日雇い労働者といった風情の、汚れの目立つぞろりとした茶系の和服を着ていて、油のにじんだ前掛けをして泥にまみれた足袋を草履も履かずに直に地面につけ、帯は、紺色に染めた部分がまだらにしか見えないくらいに色褪せた年季の入った代物だ。
しかも身体は左右にユラユラしながら前屈みで足元はおぼつかなく、焦点の定まっていない目で不定形にあちこちを目だけ動かして見回している様子だった。
そして好きなだけ見回したあと、またフラリフラリと路地に消えていった。
なにより今日はまだ肉屋のおかみさんも言っていた、夕方から夜中にかけて自由なスローガンを掲げて労働者を引き連れ練り歩く“訳のわからない連中の行進”とやらが始まるにはまだ早く、ロリが思うほど陽が落ちてはいないことにも気付かされたのだった。
「…」
そうこの時間、労働に勤しむ人々は帰宅する時間ではない。
軍港や工廠に勤める工人の帰宅時間は早くても18時以降、それ以外の勤め人は早くても19時以降、こんな夕暮れから夕闇に移るこんな頃合いに斯様な人間がウロついてるはずはない。
「うん」
左様に可笑しな事実に思い至ったロリは、この不審人物の尾行をはじめることとしたのだった。
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