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食事の終盤、サラダの残りを自分のボウルに移しながら、彼女がつぶやいた。
暗い響きではなかったけれど、ピンと空気が張りつめた。
俺以外に答えられる人間はいない。
「そうだね」
彼女の肩越しの薄闇に、扇風機のシルエットがぼんやりと浮かんでいた。
仕事から帰ってきて、ひとりで夕食を食べた九月の彼女も寝る前にこうして、扇風機を眺めたに違いない。
「ずっと恋人のままでいる気はないよ」
自分の言葉で、自分の意識を越えていく感覚があった。
大きな土の塊がぽろりと外れて、ずっとそこにあった骨が露出するような。
「それは、当たり前よ」
彼女はずばりと切り捨てる。
クリアしなければならないことは沢山あった。
仕事はどうする? 親はどうする? 貯金もない。
ロマンチックなムードだけでは、解決はしない。
キャンドルを点けるには、ライターなりマッチなりが必要、ということだ。
できるだけ困った顔をしないように努めていると、彼女がふふふ、と笑うのが聞こえた。
「考えてくれているなら、いいんだ。まだ春だし。本当は、私が転職するのがてっとり早いけど、仕事のキリが悪いから。待たせてるのは、私なんだよね」
缶ビールの残りを、俺のグラスに注ぐ。
「先にというのは」
俺は、しゅわしゅわと弾ける泡を見つめた。
「先にというのは、ダメかな」
「先に? 先に何?」
「来月書類を持ってくるから、こっちで手続きをして入籍をしてしまう」
プロポーズに限りなく近い台詞を、
「別々で暮らしているのに? できるの?」
と彼女は疑問符で返す。
できるの?
できるよ。
小さな炎が、ロウの池に沈みかけていた。
ホントかなあ、彼女はぼやき、俺の背に手を添えた。
「じゃあ待ってるね。5月ね」
漫画の新刊でも借りるような口ぶりだった。
パンパンと軽く背を叩いて立ち上がり、洗面所へ入っていった。
俺はキャンドルを傾けて、ロウを自分の皿にこぼし、小さな灯火を沈没から救ってやった。
彼女が戻ってくるまでに少し長くかかるかもしれない。
戻ってきたら、明かりをつけて、これからのことをもっと話そう。
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