旅人のはなし

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――― 『アテンションプリーズ。皆様、もうじきイブムニアに到着いたします。離陸するまで、席を立たずにお待ち下さい』  できるかァァァ! エコノミークラスの一席に座ってガタガタ震えながら、青年は叫び出したいのを必死に堪えた。 今、飛行機は海の真ん中を飛んでいる真っ最中で、キャビンアテンダントが上品に演説している。 優雅な一時を提供してもらっている立場にいるのに青年の心中は荒れまくっていた。 何がアテンションプリーズだこの野郎、テンションも何もあるかバカ! ……と、このように。 ーーーーーー 青年の名前はキース・アンダーソン。 黒地に白のメッシュを入れた髪と、ピアスなどのアクセサリーといった、少々チャラついた風貌。 そして帽子を乗せるように浅く被っているのが特徴的な若者だ。 彼はいわゆる水恐怖症なのである。 昔、義理の父親に崖から川に突き落とされて死にかけた事がトラウマになって、雨の下も歩けない。 よって現在のこの、海上を飛んでいる飛行機に乗っているという状況にもチビりそうなくらいビビっている訳だ。 とんだヘタレ野郎である。 ――つーか、もうダメだ、降りる! 勢いよく席から立ち上がって、脇目もふらず向かったのは乗降口。 目の前に立ちはだかる重厚なドアを、一刻も早く開けようと、キースは必死でもがく。 言うまでもなくロックがかかっていて開かないが、そんな当然のことにすら気づかない程、精神的に追いつめられているようだ。 「お客様、何してらっしゃるんですか⁉ 危険ですので席にお戻りください!」 「うるせぇ! 今、この機内にいる事自体が、既に危険そのものなんだよ、オールレッドなんだよ! いいか、これはちょっとした予言だけどな、多分あと十秒くらいでジャック・バウアーが出てくるぞ!」 「いいえお客様、あれはテレビの世界です。中の人は……」 「知るか!」 唾を撒き散らし、血走った目で喚くキースの姿は、もはや理性をなくした猿同然だった。 キースはほとんど本能で辺りを見渡し、今最も見つけてはならない物を見つけてしまった。 非常時のための、ハッチ開閉装置のスイッチである。 ガラス製のカバーで守られたその装置を、キースは何の躊躇いもなく、カバーごと叩き壊して押した。 機内にけたたましいベルが鳴り響き、轟音とともにハッチの扉が開く。 「ちょっとォォお客様⁉ お気を確かに――」 キャビンアテンダントの悲鳴にも似た叫びは、台風のような凄まじい風にかき消された。 キースはドアの向こうへ、そのまま何の躊躇もなく飛び出した。 「お客様ぁぁあああ!!」  ぁぁぁぁぁ……  ぁぁぁあああ……  ぁああああああ……  ああああああああ!! どんどん近付いてくる地上。 出しうる限りの声量を喉から絞り出して絶叫する。 十七年間の人史上、最も重要なである昨日の走馬灯が、頭を駆け巡った。 『あなたの旅の目的の鍵を握る者を知っています。キース・アンダーソンさん』 電話の向こうの男は、唐突にそう告げた。 朝起きて、出かける前にかかってきた電話なのだが……あまりに謎すぎる。 何を言っているんだ、こいつは? 知り合いの誰かが、イタズラ電話でもしているのだろうか、と思った。 「イタ電なら他当たれよな。今忙しいんだよ」 『おやおや? イタズラだとお思いですか』 「当たり前だろうが、挨拶も無しにいきなり意味わかんねぇ事言い出しやがって。誰の差し金だ」 『信じられないようなら、少々あなたのプライベートを明かして証明致します。まず、あなた昨日近所の図書館で、八時間に渡ってこっそり官能小説読みふけってましたね。ジャンルは病院モノが多いので、もしかして看護婦さんが好きなんでしょうか?タイトルは――』 「ああああ!いい、もういい分かったからそれ以上言うな!」 慌てて相手の声を遮断した。 キースは知り合いこそたくさんいるが、こんなタチの悪い奴と知り合った覚えはない。 一瞬でイタズラの線は消えた。 ていうか何なんだこいつ? 一言にプライベートっつっても、普通そんな所に着目するか? いや、しない。絶対しない。名探偵だってもっと空気を読む。 冷や汗を拭いつつ、とりあえず一つ、庶民的な質問を投げかけてみる。 自然とヒソヒソ声になってしまうのが何だかやるせない。 「誰だお前」 『あ、申し遅れました。私、株式会社ブランクイン本社副社長、ブルーノ・クローバーと申します〜』 ブランクインとは、世界中に支部を置く大企業の製菓玩具メーカーだ。 キースはとある目的から世界中を巡っているのだが、どの国でも一番人気なのはブランクイン製品だった。 世間では禁煙キャンペーンが進んでいるにも関わらず、ブランクインは逆走して見た目も味も、煙の質感までもが本物に近いお菓子を作った。 しかし、あくまで格好付けたがりな子供のためのお菓子なので、味はホワイトチョコからミントチョコまで様々。 キャッチコピーは『大人の階段ぶっ壊せ』である。 「……で、そのブランクインの副社長が何の用だよ」 『先程も申し上げましたように、あなたが求める情報――テッド・アンダーソンの死の裏にある秘密を存じ上げている者がいます』 テッド・アンダーソン。 キースの父の名前だ。といっても、義理のだが。 小さい頃、キースはイギリスのスラム街にいた所をテッドに拾われた。 そして十一年前のある日、テッドは突然何者かに殺された。 治安の良い土地じゃなかったから仕方なかったんだと思う。 だがキースは幼心に、何かが引っ掛かっていた。 何がと聞かれても困るから聞かないでくれ、というレベルの、釈然としない感じ。 それでも疑問は疑問だから、キースは調べている。 そして、電話先の男はその答えを導ける、という訳だが。 『知りたくないですか?教えて差し上げてもいいですが』 「……一応言っとくけどな。僕は、世界中回って親父の死の真相を調べたんだよ」 『もちろん存じ上げておりますよ。しかし手がかりは、何も見つからなかった。そうでしょう?』 図星を突かれて、不覚にも押し黙ってしまう。こちらの情報は筒抜けか。 『何年も待ち望んでいた真実です。これを逃したら、一生お父様が謎の変死を遂げたという曖昧模糊な事実だけで終わってしまいますよ?』 ごくごく軽い口振りだが、その台詞には何か強く惹きつけられる、魅力のようなものを感じた。 『さぁ……どうしますか?』 「決まってんだろ。乗る」
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