一章 元刑事から教師へ

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 始業式が終わり、三年生から順に教室に帰っていった。はやく暖房の効いた教室に入りたいため、みな足早だった。それを生徒指導の教師が唾を飛ばしながら怒鳴っていた。彼だけは暑そうにしていた。  体育館を出ると、冷ややかな一陣の風が吹いた。内海は身を縮め、大きく息を吸い込んだ。天気予報士は言っていた、今年の冬は前年と比べ暖かいものになるでしょう。毎年のように述べている気がするが、いったいいつになったら暖冬はくるのだろう。  校舎に入り、廊下を歩いていく。職員室に入る前に、タバコを吸いに行こう。 「凛姉ちゃん」  足早に歩いていると、後ろから声をかけられた。一瞬でその人物が誰だかわかった。同時に最後の事件の映像が甦った。  振り返ると、生徒らの中に中原あおいが笑顔を見せ立っていた。他の生徒はあおいの横を通り過ぎ、内海のそばも横切っていった。人の波の中に、二人だけが足を止め立っていた。  あおいの顔立ちは整っていた。目はリスのように大きく、眉は凛々しく上向き、精悍さがある。以前までは髪の毛を背中まで伸ばしていたが、耳にかからないくらいまでばっさりと切っていた。前髪は左にわけ、少しだけおでこが見えていた。半年前の嫌な出来事を忘れるためにも、心機一転を図ったのだろうか。  そのボーイッシュな髪型や顔立ちも相まって、少年のようにも見える。スカートではなくズボンを履いていれば、華奢な可愛らしい男の子と間違われてもおかしくない。わざとそう見えるようにしているのかも知れない。あの事件のせいで、自分が女であることを隠したいのかも知れない。  あおいは嬉しそうに駆け足でそばにやってきた。「久しぶりだね」  内海は笑い、頷いた。「久しぶりだね、あおい。元気そうで良かった」  生徒の波は雑音と共に去っていき、二人だけになった。途端に静かな空間となり、より一層寒さを感じた。だがあおいは寒さなどみせようとせず、元気な笑顔を浮かべている。 「一ヶ月、いや二ヶ月ぶりくらいかな……? 凛姉ちゃん、お正月の集まりに参加しなかったしね。私に会いたくなかった?」 「そんなわけないでしょ。ただ面倒だっただけ。連絡は取っていただろ」 「そうだね。まあ、私も集まりには出ずに家にいたんだけどね。凛姉ちゃんのことをとやかく言えないの」 「そう」 「メールで学校に来ることを教えてもらったけど、まさか教師になるなんてね。ううん、もちろん嬉しいよ? でもびっくりしちゃって」 「私としても驚きだったよ。教師になるなんて。しかもあおいの通ってる学校にね」 「あ、もしかして緊張してる?」とあおいは悪戯っぽく言った。  内海はふふっと笑い、首を振った。「それがまったく」 「凛姉ちゃんは勇気があるもんね。挨拶の言葉も臆することなく、立派だったし。みんな、かっこいいって言ってたよ、元刑事だってことにも驚いてた。だから友達にいとこだって自慢しちゃった」  友達という言葉を聞き、内海はほっとした。新しい環境で、上手くやっているということだ。 「凛姉ちゃん、頑張ってね」とあおいは言った。「私も頑張るから」 「一度は夢みた教師だ、誠意を持ってやるよ。でもあおい、頑張り過ぎても駄目だからな。なにかあれば、すぐ相談するんだよ」 「うん、わかったよ、内海先生」とあおいは笑った。 「それとあおい、その髪型似合ってるよ。とても」  あおいは右手を髪の毛に持っていき、瞳を上に向けた。「ふふっ、ありがとう。気持ちを切り替えようと思って。抵抗はあったけどね」 「そうか。だが似合ってるんだから良かったじゃないか」 「まあね。凛姉ちゃんもこれを機に、タバコをやめたら?」 「それは無理な相談だね。今も吸いたくて仕方がないんだから」 「努力をすればやめられるかも知れないのに……まあいいか。たぶん今日、お母さんからごはんを食べに来ないかって連絡がくると思うよ。朝、お父さんとそんな話をしていたから。のりのりだったよ」 「久しく会っていないしな……。わかったよ、連絡があれば、ご馳走になると伝えておくよ」 「うん、じゃあね。そろそろチャイムも鳴ると思うし」 「ああ」  あおいは手を振ると、内海の横を通り過ぎていった。  内海はそこで気がついた。もうすぐでチャイムが鳴るということは、タバコを吸えないではないか。  喫煙室の前に到着すると、ちょうどチャイムが鳴った。内海が副担任をする一年二組の担任教師である山原(やまはら)が出てきて、ホームルームに行きましょうかと言った。山原は三十代後半の女性だった。内海はわかりましたと言い、喫煙室の前を通り過ぎていった。  二組に到着すると、あらためて生徒に自己紹介した。そして山原の話が始まった。冬休みが終わり、いつまでも浮かれているわけにはいきません。気を引き締め、冬休み気分を吹き飛ばして授業を受けるように、と。  生徒たちは顔を上げ話を聞いていたが、内海の方が眠ってしまいそうだった。  そう、これが学校というものだと、懐かしく思った。  始業式と短いホームルームだけのため、午後に差しかかる前にすべての予定が終わった。愛車の白いセダンに乗り込み帰ろうとしていると、あおいの母親である香織(かおり)から電話があった。あおいが言っていたように、夕食のお誘いだった。十九時頃お邪魔すると約束し、電話を切った。  香織は十歳離れた父の妹だった。歳が離れているということもあり、父はたいへん可愛がっていた。それを香織も感じていたのだろう。父が死に一番泣いていたのは香織であった。涙を流せなかった娘の横で、泣きじゃくっていた。内海の母は、すでに幼い頃に亡くしている。  タバコに火をつけると、エンジンをつけ、車を発進させた。我慢に我慢を重ねたタバコは格別だった。すっと心が落ち着いていくのがわかる。霧が晴れたような感覚。煙を吸っているのに霧というのもおかしなものだが。  どこかへ昼食を取りに行こうかと考えたが、すぐにカップラーメンでいいかと思い直した。というのも、帰りの支度をしていると、唾を飛ばし叱っていたあの生徒指導の教員にランチに誘われ、用事があるからと断ったのだ。万が一どこかで鉢合わせないためにも、カップラーメンを食さなければならない。
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