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サイエンスフィクションの世界
この五日間、人間の姿を見ていない。
私はテレビも持っていないし、リモートワークの日はメイクもしないから自分の顔も見ないし。
この前の出勤日に上司と会った時、「考えてみたらこの数日、人間と話したのって職場に勤務開始の連絡した時だけなんですよね」と言ったら、小さい子供のいる上司は「うらやましいよ、うちじゃ仕事にならなくて」と言った。
たしかにそうかもしれないけど。仕事にならないのと人間とコミュニケーションを取る機会がなくなったんだったら、後者の方が圧倒的にヤバいんじゃない? そう思ったけど私は「大変ですよね、お子さんが小さいと」と応える。伊達に十何年も社会人をやっていない。
私は酔っ払って「最近知ったんだけど女性には基礎体温ってものがあって周期があるんだって。君も病院に行ってちゃんと診てもらった方がいいよ」って上司が言った時も、「ありがとうございます、参考にします」っ言ったからね。その時『赤ちゃんが欲しい』って雑誌を読んでて、携帯アプリの基礎体温グラフも何年分かたまってきてたころだったけど。基礎体温なんて三十過ぎた女には一般教養だから。まあ結局、離婚することになる夫との間に子供ができていたら、子供を不幸にしていたかもしれなかったけど。
土曜日の夜に『オンライン飲み会やりましょうよ』と旅行好きの女友達から連絡がくる。私たちは皆、ひとりで秘境に行けるタイプの女だ。婚活パーティの初対面どうしの会話が薄っぺらすぎて疲れる、なんて会話で盛り上がれるタイプ。
今三十九度の熱が出たら何を準備すべきか? とりあえず、ひとりでも食事をなんとか用意しなきゃいけない。レトルトのおかゆなんかを準備した話をして、また盛り上がる。
今死んでも、誰にも見つけてもらえないかもしれない。そんな危機感は、働き始めたころ職場の五十代の女性が突然死して、数日後に彼氏に見つけてもらった話を知ってからずっと持っているけど。だからってアラフォー女にとって、婚活の表面的な会話から家族になるまでの道のりは絶望的に遠くて、コロナは私を待ってはくれない。
私たちは誰もお酒が飲めなくて、私が飲んでいたのはコーヒーだった。紅茶はリモートワークになってしまってからばんばん飲んで、ちょうど今朝切らしてしまったところ。
土曜日だから翌朝起きられなくてもいいや、そんな気持ちでコーヒーをガバガバ消費する。
私たちはたぶん、どんな状況でもあまり仕事がなくならない。まあ頼れる夫もいないから、ひとりでやっていかなきゃいけないっていうのもあるんだけど、一方で子供もいないから、たくさんお金がいらないっていうのもある。
なんとなく今は、そうでないひとたちに対する申し訳なさがあるような気もする。就職活動の時に社会に貢献する度合いが高い仕事につきたいって思って、選んだのは自分ではあるけれど。
コーヒーのせいまで朝まで眠れずに、のんびり起きた翌日の昼。ワンルームで椅子とキッチンの往復しかしない運動不足と、昨日から冷蔵庫の野菜がなくなっていることに危機感を覚えて、五日ぶりに部屋を脱出した。
人間が歩いている。
まだ地上に人類が残っていたのか、という素直な驚きを感じる。サイエンスフィクションで核戦争の間、地下にこもっていた人が初めて人間を見た時みたいだ。
この感覚は、あれだ。
アフリカに住んでいた時、日本の動画をずっと観ていた週末。久しぶりに買い出しに行くと、皆の肌の色が黒くてびっくりした。ああここは日本じゃなかったって。そんな感じに似ている。
まだこの世界には人類が残っていた。
子供が駆けまわる公園を通り抜けて、隣駅まで歩く。ジョギングをしている人もたくさん。私も、リモートワーク前にジョギングとかすればいいのかも。少しは健全な精神になるかもしれない。
隣駅では、最寄り駅よりは開いているお店が多かった。飲食店でも、やっているところがある。
そろそろ自分の料理に飽きてきて、外食がしたい。明かりのついているところを見ると、ラーメン屋だった。お客さんはお兄さんがひとりきり。
まったく密集していないので、お店に入る。お兄さんはすぐ出ていった。
店主のおじさんは、本当に嬉しそうだった。
すぐ出てきたラーメンを黙々と食べる。お兄さんもいなくなったので、私とおじさんのふたりきり。うん、密集はしていない。
ありがとうございました、とおじさんが言う。おじさんは、私が出ていく間に五回くらいありがとうと言って、私はとっても気まずくなった。
そこのラーメンは、別に私が好きなタイプのラーメンでもなかったし、私が払った額は千円にも満たなかった。それでも、おじさんは娘みたいな私に頭を下げる。
ごちそうさま。そう言っても、気まずさは消えない。
私以外の、この味が好きな人がまたお店に来るまで、おじさんはがんばれるんだろうか。娘みたいな私が、がんばれって言うのも失礼な感じだけど。
私もそう、こっちの駅に外食には来ないと思う。できるだけ外出自粛だもの。
帰りにスーパーでやっぱりこっちの駅にもトイレットペーパーがないのを確認して、仕方なく食料品だけを買って帰る。
私はまた人類のいない世界に帰る。人類のいない世界で私たちはまたがんばっていく。
おじさんも、私も。この、人類がいなくなった世界で。
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