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自転車
学校もアルバイトも休みの朝。
俺は毎日の日課にしている軽いランニングに出掛ける為に家の中から門扉をくぐり表に出る。外に出た途端俺の目の前に現れた光景を見て俺は驚いた。
先日、保育園の前で見たあの綺麗な母親が彼の家の前で自転車と格闘している。
どうやら彼女達の乗っていた自転車が故障してしまったようだ。
その傍らでは退屈そうに女の子はしゃがんで自転車を、直そうとする母親の側で、なにやら棒のようなもので地面に落書きでもしているようだ。
「あの・・・・・・、どうかしましたか?」思い切って声をかけてみる。
「あ、ああ、すいません。乗っていた自転車が故障してしまったみたいで……、お宅の家の前でご迷惑ですよね。すぐに移動させますので……」ふと見ると彼女の手の汚れから、悪戦苦闘の後が伺えた。
「いいえ、迷惑だなんて……、もし良かったら俺が見てみましょうか?」言いながら自転車の近くに近づいた。
自転車の修理はよくするので得意であった。パンクやチェーンの外れ位なら俺は自分で直すことができる。
「えっ、そんな・・・・・・、いいのですか?」そう言うと彼女は少し後ろに下がった。
俺は自転車の側に腰を下ろしてペダルを回してみる。タイヤは回らない。中で歯車が空回りしているようであった。
隣で作業を覗き込むように彼女が見ている。その距離が近くて彼女の吐息が耳元で聞こえる。俺の心臓の鼓動が少し高鳴った。
それは甘い香りがした。
「これ、このチェーンが外れてるみたいですね。ここのチェーンカバーを外すのにプラスのドライバーがいるな」彼女の顔を見てみたが当然ドライバーなどの工具を持ち歩いている風ではなかった。
「少し待っていてください」少し思案してから立ち上がって、一度出た家の中に戻り洗面所の下に保管してある工具箱を手にした。
ついでに肩から掛けていたタオルを水道の水で濡らしてから軽く両手で搾った。
俺が再び家の玄関を出ると、彼女は故障した自転車の近くで、女の子と一緒に待っていた。
「お待たせしました」
「すいません・・・・・・」彼女は申し訳なさそうに立ち上がり頭を下げた。
「いえいえ、あっ、手が汚れてるみたいだからこれで手を拭いてください。油で汚れたでしょ」先ほど水で湿らせたタオルを彼女に差し出した。
「い、いえ、そんな、タオルが汚れてしまいます」両手で振りながら彼女は断る。やはりその手は結構汚れている。その汚れ具合に彼女は改めて気づき、自分の手を見つめていた。
「いいですよ。そんなに良いタオルでもないですから」きっと母親が100円ショップで買ってきたものだ。
「いいんですか?本当にすいません」彼女は申し訳なさそうに、俺の手からタオルを受け取ると自分の両手の汚れを拭った。
ペダルの根元についていた板のネジをドライバーで外した。中を覗くと案の定チェーンが外れている。
「やっぱり、チェーンですね・・・・・・・、これなら簡単に直せそうだ」俺は少し自慢げに彼女達へ微笑んで見せた。
「本当ですか!すごい」彼女は両手を叩いて称賛の声を上げた。隣にいた女の子も母親の真似をして手を叩きながら「しゅごい!しゅごい!」と言っている。幼女のその仕草が微笑ましい。
「まだ、直ってないですけどね」自転車のチェーンの隙間にドライバーを差し込み、ペダルをゆっくりと回転させる。しばらくするとチェーンの軌道が修正されて、タイヤが回り始めた。
「凄い!こうやって直すのですね!私がいくらやっても無理な筈だわ」彼女はひどく感心したように呟いた。
「直りました。これで大丈夫です。近くに自転車屋でもあればいいんですけどね。この近くには店が少ないですから……」言いながら先ほど外した板をもう一度固定した。そう、この辺は結構不便な場所なのだ。
「有難うございます」彼女は大きく頭を下げてお礼を言った。俺は少し照れ臭くなって、人差し指で鼻の下を擦った。
「あっ・・・・・・」彼女は俺の顔を見て目を見開いた。それがどうしてなのかは解らなかった。
「お髭!お髭!」女の子が爆笑しながら、彼の顔を指さした。
「えっ!」どうやら、先ほど指で鼻の下を擦って、油が髭のように見えるようだ。
慌てて隠そうとするが、すでに遅し・・・・・・。
「うふふふふ、じっとしていてください」そう言うと彼女は少し微笑みながらタオルの汚れていない部分を探し俺の鼻の下の辺りを優しく拭いてくれた。
『滅茶苦茶綺麗だし、いい匂いがする・・・・・・』
すぐ目の前に彼女の顔があり、俺は恥ずかしさのあまり目を逸らした。しかし、いい香りを吸収しようと無意識に鼻の穴がヒクヒク動いてしまったようだ。
「うふふふふ、可笑しい・・・・・」なんだかまだ笑っていただけたようであった。
「自転車、これで大丈夫ですよ!」誤魔化すように彼女に自転車を引き渡す。
「有難うございます。本当に助かりました。このタオルはまたきちんと洗ってお返ししますので」汚れたタオルを丁寧に畳んでいる。
「えっ、いえ良いですよ、そのままで!」
「いいえ、洗わせてください。ひなもお兄さんにお礼言って」言いながら、彼女は自分の娘に目配せする。
「ありがとうね。おにいたん!」ひなという少女は、母親に言われた通り、お辞儀をしながらお礼を言った。
「お利巧さんだね!」頭を撫でてあげようかと思ったが手は油でドロドロであった。
「えへへへ」ひなは嬉しそうに笑った。
「それでは、この子を保育園に送って行きますので、また改めてタオルはお返しします」そう言いながら、ひなを自転車に設置された幼児用の椅子に座らせて、自分も自転車に跨がると彼女は最高の笑みでお辞儀をてから保育園の方向に走り去っていった。
俺は二人の姿が見えなくなるまで見送った。
少しの余韻を味わってから、家の中に工具を置き、本来の目的であるランニングに出かける事にした。
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