獅子 日傘 鉛筆

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獅子 日傘 鉛筆

 どこまでも広がるのは、薄茶色の大地。丈の短い草は、かすかに緑の色を帯びて、けれど土とまじりあって区別がつかなかった。緩やかに下りながら、また昇り、どこまでも終わりなく続き、地平線はそのまま空との境界線へとつながって、上へと辿れば、こちらは刷毛で一色に塗った灰色の空だった。時折、冷たく強い風が、どこからともなく吹き荒れて、砂塵を巻き上げていった。  遠くで上がった土煙をじっと見やって動かなくなったその手を、ざらりと大きな舌が舐め上げた。 「こら、リオン」  叱る声は、ただ柔らかい。持たせかけた背中を、守るように囲うのは、リオン――鮮やかな金を纏った、美しい獅子。  ねえ、と今度は別の方向から声が掛かった。 「できた? 私の絵」 「できたよ」  ほら、とノートを広げると、愛らしい子供の笑顔が、紙いっぱいに広がっていた。まあるい頬、にこりと笑った口元から、ちょこんと覗く八重歯が一つ。白と黒と灰色で、けれど子供の笑顔の色を写し取った一枚だった。  わあ、と歓声が上がった。子供ばかり、十人ほどが、ぐるりと取り巻くのは、旅人だった。  風よけ長いコートを着込んで、紙を束ねただけのノートと、刃物で器用に削られた鉛筆を何本も使って、旅人はせがまれるままに、子供たちを描いていた。  物資をもたらす旅人は、たいてい大人たちに囲まれるが、不思議と、大人よりも子供たちの方がこの旅人の周りに集まった。髪も目も、肌にも色がなく、白のような、薄い灰色のような、ぼんやりとした色彩で、この集落の人々の誰にも似ていなかった。  ただしたった一つ、爪の先だけが、美しい薄い桜色だった。  けれど、誰一人として子供たちは旅人を恐れなかった。  旅の供は、大きな獅子と、茶色の柄、握りは黒、張った生地はつやを帯びた白の傘。それも、雨の日にはさせない、日傘だった。だが、旅人以外にそれを日傘と呼ぶ者はいない。雨も、日差しも、この世界にはないからだ。  あるのは、荒涼と続く大地、そして、同じだけ広がる鈍色の空だ。  一通り顔や頼まれた物を描いた後は、おしゃべりの時間になった。どうして旅をしているの、どこから来たの、どこへ行くの。  たくさんの質問に、旅人は変わらない柔らかい声で答えた。低くもなく、高くもなく、誰に耳にも心地よく届く声だった。  旅をするのが目的であること、とても遠くから来て、とても遠くへ行くこと。 「遠くってどこ?」 「……世界中のすべてかな」 「足が痛くならない?」 「痛くなっても、行かなくちゃならない。でも今は、リオンがいるからならないよ」 「どうしてリオンと一緒にいるの」 「私と共に行くと、この子が決めたからさ」  そういって、鉛筆でところどころ黒くなった手が、獅子の鬣を撫でた。もっとというように、リオンが鼻面を押し付ける。 「それはなあに?」 「日傘だよ」 「ひがさってなに」 「日よけのために差す傘だよ」 「ひってなあに? ご飯を作るときに使う火?」 「違うよ。空にあるのさ」 「そらに?」 「太陽、って呼ばれていた」  分からない、とだれもが顔を見合わせた。  そう、と少し悲しげに、旅人は目を伏せた。  子供の一人が、中を見せてとノートを指した。もちろん、と旅人は地面に広げる。先ほどまで描いていた子供たちの顔、子供たちの家もあった。ここはちょうど、大地が谷になった場所で、強く冷たい風が通り抜けることも、土煙と竜巻に襲われることもなく、また谷の隅には、湧水があって、それが人々の命綱になっていた。  ぱらりぱらりとページが捲れる。どんなにまくっても、いっかな終わりがなかった。子供たちの誰もが、見たことのないものであふれていた。  リオンに似た、けれどもっと小さな形のもの。石ころに棒切れを両方に三本ずつ足して、目と口をつけたもの。  楕円形の、筋のたくさん入った平たい何か。五枚の丸と、真ん中に線を足したもの。形は様々。五枚だけではなかった。八枚もあれば数えきれないものもある。  棒をつややかにして、柔らかくし、頭と目のある何か。これらすべてが、鉛筆の黒と白の濃淡のみで描かれていた。  獣、花、木、葉は、ここにはないものだった。昆虫や爬虫類は、滅多に地面から姿を現さなかった。  人と、風と、土。わずかな植物だけが、この集落(せかい)のすべてだった。  見知らぬものばかりで、やがて飽きてきた子供たちが、一人二人と旅人の前から去っていった。子供たちがいなくなるたびに、少しずつ旅人の顔色は暗くなった。丸まる背中を、そっと押し返した金の獅子の緑の目に射抜かれて、旅人が背筋を伸ばす。  最後に残ったのは、八重歯が少し見える笑顔の女の子だった。何枚も何枚も頁を繰り、時々戻っては比べっこをする。どんどん、どんどんめくった先で、あ、と叫んで目を丸くした。 「旅人さん、ねえ、すごいよ!」  ばっと旅人の目の前に広げて、大きく腕を伸ばした。見てみて、と指をさす。 「私これ知ってる!」 「――っ」 これ、と少女はもう一度自分の胸の前に引き寄せて、じっと魅入った。 「これ、たんぽぽって言うんだよ!」  ぶわり、と広がったのは、暖かな空気だった。え、と驚く少女の前で、ゆらゆらと線が動き出す。細かな花弁と細い茎、独特のとんがりをいくつも持った葉に、種をつけたフワフワの綿毛。描いていた白と黒と灰色の線が、紙を離れて空に舞った。  それから、どんどん増えた。少女の周りに、リオンの周りに、旅人の周りに。  ああ、と旅人が息を吐いた。口元には笑みがあり、目は少しだけ潤んでいた。 「私と来たのは、間違いじゃなかったね、リオン」  さあ、と旅人が手を差し伸べる。指先が、白黒の花に触れて、反対の手がリオンに伸びた。 「御帰り。世界へ――蒲公英(ダンデライオン)」  指が、リオンに触れた、その時に、一面の花は金色に染まり、葉と茎は鮮やかな緑に変わった。  咲いた花の横では、また新しい一輪が咲き始める。時を早回しにし、咲き乱れ、しぼみ、また蕾となった。  風が吹く。つぼみが揺れる。もうすぐ開くその時に、旅人がさしていた日傘をぽん、と空へ投げた。くるりくるりと、傘が回る。回りながら、ゆっくりと降りてきた。開いた真っ白な生地には、目を凝らせば刺繍が一面に飾られていた。茶色の柄、黒の持ち手は、種となる。  とん、地面に着いたその時に、足元が、今度は白で覆われた。咲いた花は、次の世代へと命をつなぐ、綿毛になった。  風が吹く。強い、強い風が吹いた。けれど、少女の知る風ではない。人々が恐れる、土と混ざり合って吹く、乾いて凍てついた風ではなかった。  肌が、柔らかな風に喜んでいた。綿毛も、誘われるままに空へ飛翔する。  綿毛と一緒に、少女は空を見上げた。飛んでいけそうな気がしたのだ。どこまでも、どこまでも一緒に。  そうして、息をのんだ。まっすぐに見上げた先、綿毛たちが空を舞うのが、鮮やかに目に飛び込んできた。  なぜなら、空の色が違うからだ。  灰色ではない。高く澄んだ、青い空。天の真上には、まぶしくて見えない、白い光があった。 「青い、空……」  手を伸ばしても、つかめない。けれど確かにそこにあった。谷の中の集落では、広がる空は狭かった。 「白い光」 「太陽だよ」 「たいよう……?」 「日の光をもたらすもの。君たちの光だ」  少女と同じように、手をかざしながら、旅人もまた、まぶしそうにしばし見上げていた。  気づいたときには、たんぽぽの花はどこにもなかった。少女はあたりを見回して、旅人がコートのフードをかぶり、かばんを背負っているのに、はっとなった。  駆け寄ると、手が伸びてきて、頭を撫でた。温かい手だった。何度も、何度も撫でて、最後にありがとう、と告げた。  出立の決心は揺らがないと、尋ねる前から少女は悟った。だから、最後に確かめることにした。 「リオンは?」 「花に。君の知るたんぽぽの色になった」 「どうして?」  それは難しいね、と旅人は苦笑した。長くて苦しい、大変な話になるという。でも、と一つだけ教えてくれた。 「忘れられてしまったから、かな」 「みんなが?」 「そう……でも、もう大丈夫。だって、君がいたから。たんぽぽの名前を憶えていた、君のおかげだ」 「お母さんが知っていたの。ずいぶん前に死んじゃったけど、たんぽぽの話、大好きだった。見たことないけど、地面が全部きんいろになるって。きんいろって、どんな色か知らなかったけど……今日、わかった」  そう、と旅人が頷いた。きっと、旅人は知っていたのだ。そしてもっと、たくさんの事を知っている。  じゃあ、と踵を返した背中に、少女は待って、と最後に追いすがった。 「ねえ、また会える?」 「私がいることを、忘れないでくれたら、きっと」  振り返って、旅人は微笑んだ。その瞳は、鮮やかな金色だった。  遠ざかる背中が、大地の起伏に飲み込まれても、少女はまだ見送った高台に立ったままだった。  絶対に忘れない、といつもの灰色の空を見上げながら、あの青空に誓った。  もう一度、会う。会えない時には、探しに行けばいい。  旅人の名前を、少女は知らない。知らなくても、旅人は会えると言った。  だから、確かめるのは、今度会った時でいい。  暖かな風と、青い空と、美しい花々を連れてくる――あの旅人の名前を。
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