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内面的要素の変化に話を戻そう。複数の存在が居る時期は、その存在により感情も考え方も当然異なっていたので、その時期は省く。それ以前の自分だ。
ここで「僕」と言う一人称を使っているが、それは感覚的に今の自分は男だからだ。だが決して性同一性障害ではない。自分の体の事は理解している。不満は有るが。複数の存在が居る時期、当然男性も居た訳だが、その男性は生理時に起きる症状を理解出来ずに苦しんでいたが、僕は出来ている。思考と言うべきだろうか、的確な言葉が思い浮かばないが、とにかく男性と言う事を視野に入れて、これから先は読んで行って欲しい。
複数の存在が居る以前、大まかに二十代としよう。その時は女だった。社交的で、自信過剰な程自分に自身が有り、欲望的だ。娯楽に貪欲で、楽観的で、反抗的な上、凶暴的でもあった。簡単に言えば、反社会的な部類に入る。だが人情味は有り、感情の豊かな持ち主だ。言い換えれば、人間臭いと言った所だろうか。
対する僕は、その真逆だ。簡単に言えば、非社会的部類。そしてどちらかと言えば、機械的だろう。これは考え方に対してだ。物事の殆どを、合理的か合理的ではないかで判断をする。他人の行動から自分の行動まで、計算をして動く。如何に合理的に物事を運ばせるか、これを一番重要視している。
感情面ではまた別だ。苛立ちや短気な部分は、以前よりも増しただけだろう。感情面に関しては、散々話して来たと思うので飛ばしたいと思う。
二十代の頃と、今とでは、まるで180度変わってしまった様だ。一番分かりやすい例として、詩について挙げる。詩を高校生の頃から書き続けているのだが、二十代の頃は所謂恋愛の詩が中心だった。悲恋であったり、恋心であったりと、乙女的な詩だが全体的の印象としては明るいだろう。対する今現在の詩は、人間の欲望であったり、醜さであったりと、人間の裏側、本質を捕えたダークな詩ばかりだ。詩の変化は、複数の存在が居る時期より、少し前から変わっている。もう少し細かく言うと、27・8歳の頃だ。(はっきりとは覚えていないが、ブログで詩を新たに書き始めた時期だ)途中全く書いていなかった時期もあるので、間は空いている。
もう一つの例として、視線だ。二十代の頃は自分を見て欲しく、ここぞとばかりに着飾っていた。街を歩いている時、人から注目を浴びる事に喜びを感じていたのだ。自分を見せびらかしていると言った方が正しいかもしれない。これは自信過剰な部分が有った事からも、女としての自分の姿に、満足をしていたのであり、女である体を着せ替え人形の様に存分に活用し、楽しんでいたのだ。だが僕は全く違う。自分の体(顔も含め)が大嫌いで、人からの視線に怯えている。それは自分の姿が醜いからだと感じ、視線も醜い者として見られている様に思ってしまうのだ。自分の体が大嫌いだと言ったが、それはきっと自分の頭の中でイメージをしている姿と、現在の姿が異なるからだろう。それは男性的思考も、少しは関係しているのだと思う。だがそれ以前に、自身の中の年齢と、実際の年齢との不一致も感じているからと言う理由も有る。この事については、また後に詳しく述べる。
両親に対しての接し方も異なる。特に父親の方だ。二十代の頃は、父親を避け、余り口を利かなかっただろう。だが今は友好的だ。これは一番分かりやすい対だと思う。
まるで表と裏、白と黒の様に、変化をしている。男と女と言う対も有るが、それはこれから追々話して行く。
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