第23章 心の準備もなくいきなり腕の中にすとんと飛び込んできた仔猫。

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第23章 心の準備もなくいきなり腕の中にすとんと飛び込んできた仔猫。

その頃の俺はすっかり彼女の前に完全に制圧されきって、身も心もめろめろになっていた。 いつもあいつは俺と抱き合うたび必ず、わたしには雅文くんだけ。他の男の人なんて考えるのも嫌、と甘く熱を込めて訴えかけてきたし。 どうせ遠くない先にこの子は俺から離れて同年代の釣り合った相手のところに行くんだから、それまでの付き合いだ。と最初の頃に割り切ってたことなんてすっかり頭から飛んでしまって、いつしかその囁きにつられて 「歌音。…俺も…」 なんて、思わずふやけてのぼせた呟きを口にしてぎゅっと抱きしめ返すようになっていた。 つまりまあ、脳内では自分は彼女の処女を何とかするためだけの都合のいいセフレだったなんてことはいつしか能天気にも忘れ去られてて。半分くらい無意識に俺たちは恋人同士だ、くらいの錯覚に次第に陥ってたのかも。 折しもその日は彼女がもっと俺に会いたいと打ち明けてきて。離れてる間も雅文くんとしたくていつもそのことで頭がいっぱいなの。わたしってやっぱりおかしいのかな、なんて思い詰めたように訴えてきたまさにそのタイミングだった。 ただあれがしたいだけなら俺以外の他の男だって当然対象になり得るはずだけど。と念のため確認してみると、まるでその台詞が個人的な侮辱みたいに猛然と反撥してきた。 他の人となんか絶対に無理、したいのは雅文くんだけだよ。そんなの考えてみたこともない。…なんて熱を込めて訴えられて、俺は自分でも情けないくらいふにゃふにゃと骨抜きになってしまった。 気がつくとついうっかり、俺だってお前にもっと会いたいし一緒にいたい。週に一、二回なんかじゃなくもう少し頻繁に来ればいいのにとか。休みの日があるならその前の日にでも来て泊まっていけよ、例えば朝起きてお前が隣にいたらって想像するだけですごくいい。…なんてことまで口走ってしまった。 そこから俺は将来どうするつもりだったんだろう。と考えるのはあとになって全てが過ぎ去り冷静さが戻ってからの話だが。 互いに身体が求め合って惹きつけあって。その引力のなすがままに発情した動物同士みたいにぴったりと夜も昼もくっつき合う。毎日やりまくっていればいつか歌音も気が済んで飽きて、俺とのセックスなんてまあこんなもんか、って落ち着くだろう。そしたらこっちに彼女を留めておくような要素なんて他には何もない。 性的欲求をすっかり解消できて心残りのなくなったあいつをあっさり解放してやる?でも、その頃には。 こっちの方こそどう考えても身も心も彼女に深入りして溺れて、完全に勘違いして。こいつは俺のものなのに、あんなに俺で悦んで感じてたのに。どうして今になって離れていこうとするんだ、と理不尽に暴れて何としてでも歌音を引き留めようとする自分が見える…。 もともとそういうたちだから、茜以来誰とも関わりを持たないよう気をつけてたのに。そんなことも忘れてこいつをいつも自分のそばに置いて恋人のように愛でようなんて。あとで考えたら俺はどうかしていた。 恋と欲情で目が眩んでさらに深い沼に嵌る、そのぎりぎりのポイントまで来ていたんだ。 そのことを一本の電話が気づかせてくれた。 激しく欲情を満たしあったあとも離れがたく、俺たちは余韻で火照った身体をぴったりくっつけ合ってそんな会話を交わしていた。今度泊まっていけよ、と誘いをかけたあとに感情が昂ぶってきて思わず深いキスをして。有無を言わさずそのまま再びセックスになだれ込もうと彼女のか細い身体にのしかかったそのとき。 隣のリビングでなんだか微かな遠い音がした、と意識に上ったのは奴が俺の下から跳ねるように逃れ出てから。それくらいこっちは欲情に気を取られて彼女に集中してた。 服を着ないまま我を忘れたみたいに自分のスマホに突進していく後ろ姿を、ぽかんと取り残されてただ見ていた。 「もしもし。…わたし」 声が弾んでる。その気安さと信頼が溢れた様子に、どうやら仕事関係じゃないなってことは察しがついた。 今大丈夫?って向こうは訊いたんだろう。うん、大丈夫だよ。と速攻勢い込んでスマホに受け応える歌音。滑らかな肌をそのまま隠すところもなく晒した無防備な後ろ姿。お前、裸のままじゃん。大丈夫じゃないだろ。 だけどどうしてか、その背中に近づいてそっと何かを羽織ってやることもできない。その声色と全身から自然と滲み出てくる多幸感。…こんな風に誰かと話す人物を。俺は過去によく知ってた気がする。 すごく覚えのあるこの感覚。そいつが俺の目の前で彼に全身全霊を振り向け、こっちの存在なんかすっかり忘れて嬉しそうに受け応えるのを。ただぽつんと取り残された気分でなす術もなく見ていた…。 奴は電話の向こうの相手をドウゼンくん、と呼んでいた。やっぱり男だ。少し甘えるような、信頼しきったその喋り方。まるで飼い猫が安心してひっくり返ってお腹を見せてるみたいだ。
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